ドクトリンとは何か?
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ドクトリンの実用について。ドクトリンには教育の道具としてのもの、指揮統率としてのもの、変化の道具としての3つの類型がある。
2012-03-22 18:58:25指揮統率の道具としてのドクトリンは何をすべきかを、変化の道具としてのドクトリンは何であるべきかを、教育の道具としては我々が何をしているか、何者であるかをそれぞれ権威をもって教える。
2012-03-22 19:03:08ドクトリンの方向性は国毎に異なり、それぞれ違った地政戦略の影響をうける。例えば時を超えて同質の戦略的課題を抱えてきたドイツであればドクトリンは指揮の道具や装置として使われる傾向にあるし、一方で異質の変化する困難に直面してきた英米ではもっぱら教育の道具として用いられるようだ。
2012-03-22 19:10:07(特に変化の道具としての)ドクトリンは政治的あるいは戦略的軍事的大惨禍のあとに生まれやすい。所謂吉田ドクトリンはWW2での敗戦の後に、ややもすると反軍思想を投影した教育的なものとして。
2012-03-23 15:26:29他には世界を二分する冷戦が始まってのトルーマン・ドクトリンや911の後のブッシュ・ドクトリンなど。デイビッド・ペトレイアスのCOINのドクトリンもイラク・アフガンの失敗の淵から浮上してきた。
2012-03-23 15:29:17Brian Reid曰くmilitary thoughtは個人的属人的、military doctrineは制度機構的であり同義語ではない。
2012-03-23 15:30:22指揮統率の道具としてのドクトリンの目的を簡潔に述べると、クラウゼヴィッツ的「摩擦」を減らすこと。どの部隊どの階級どの兵科にあっても、軍隊の構成員として共通の理解されるべきものはある。
2012-03-23 15:33:34教育目的のドクトリンは公式の文書やマニュアルに限定されない。コリン・パウエルやウェズリー・クラークといった軍のスーパースターの回顧録といった出版物も活用される。
2012-03-23 15:36:20Authority、レンジャー部隊所属やウェストポイントの卒業生、大学院や参謀学校で教育を受けたといったバックグラウンドに由来する信頼性がここでは重要。
2012-03-23 15:38:01世界で戦争してきた英国ではドクトリンという考えがあまり人気を得ていない。間違った時、間違った場所、間違った敵軍に備えることになるというのが理屈だ。(アフリカでの敗戦を踏まえて生まれたドクトリンが南アジアでの戦いで役に立つか? 正規軍を念頭においたものが対ゲリラに通用するか?)
2012-03-23 15:44:16相手や、時として自国の政治家がどう動くかを予測するのは困難である。しかし一般的なドクトリンは少なくとも我々、自分たちの軍隊部隊がなにをするかを推測するのを容易にする。
2012-03-23 15:49:02賢く書かれた一般のドクトリンは(現場の)中間階級の意思決定者の邪魔をしない、手助けする。ドクトリンはあらゆる状況でどう動くべきかを教える脚本ではない。それに戦場で(想定していたのと)異なる敵に当たる準備をするかもしれないからといって、なにもしないのは答えではない。
2012-03-23 15:53:54政治的目的を軍事的タスクに落とし込むのは戦略やオペレーショナル・アート、しかしドクトリン、いわば文法がなければ、その<翻訳>作業が難しくなる。
2012-03-23 16:00:10組織の根幹レベルではドクトリンはおそらく一つになるだろう。より実践的なレベルにおいては、ドクトリンを1つ以上持つのはチートじゃない、それは必要だ。
2012-03-23 16:05:28ドクトリンは不確実性と情報過多で行き詰ったときの(オペレーションの)操縦ガイドになれる。(そもそもは戦場の霧、情報の闇の中で司令官を誘導するのがレーゾンデートルだった。今はテクノロジーの進歩、情報へのアクセスが容易になったことで生まれた情報の海で溺れない装置の機能も要求)
2012-03-23 16:13:57【変化】1806年、フリードリヒ大王死去から20年、ほとんどのプロイセン人はまだ彼の遺した制度が他国よりも優れていると見なしていた。プロイセンは1790年代の革命期フランスとは戦っていたが、まだ戦場でナポレオンと相まみえていなかった。
2012-03-23 16:22:26フリードリヒの世界では鉄の規律は剛勇の頂点で、死の恐怖を前にしても敢然と立ってやたらめったらに一斉射撃するのが軍の卓越性の中核だった。
2012-03-23 16:26:05で、ナポレオンにボコられた。一方でScharnhorstさんは「これって最高に優れていたんじゃなくて最高にアホだったんじゃね?」という見方をしていた。
2012-03-23 16:29:06我々が今日知っている近代的なドクトリンは、大敗北を喫した後のプロイセンやフランスのような、変化やキャッチアップへの強い欲求から生まれたのだ。
2012-03-23 16:32:32ベトナム後のアメリカもまた プロイセンやフランスの事例ほど深刻でなかったにしても、将来同じ過ちを犯さないために変化を起こさなければいけなかった。
2012-03-23 16:34:391973年のArmy Training and Doctrine Command、次いで1976年のFM100-5 Operationsの発行を通じて体系的な軍事思想を制度化した。ドクトリンの発展は「変化のエンジン」になった。
2012-03-23 16:37:49ここで重要なのは、1970年代の米陸軍の主眼は次のベトナム戦争に勝つことではなく、在来型の戦争(conventionl war)に急いで戻ることだった。
2012-03-23 16:39:36閑話休題。ベトナムのような泥沼の戦争をやらないつもりでいたところ、イラク・アフガンでまたやってしまったということになる。conservativeが優勢だったが、上手く行かなかったので結果的にcounter-insurgency(COIN)が持て囃されペトレイアスがスターに。
2012-03-23 16:46:43