攻撃には自分自身への問いかけをしない【卑怯者】のものと、自身への問いかけを行なう〈自省者〉のものとがある。前者を【攻撃】、後者を〈攻撃〉とする。
2012-04-08 04:22:31【卑怯者】はまず【弱虫】である。【弱虫】は「自分自身への問いかけ」を恐怖する。換言すると成熟への道を拒否する者。が【弱虫】の段階ではまだ恐怖を感じているが、恐怖からようとしはじめると【卑怯者】になる。他者を【攻撃】し始める。【卑怯者】の【攻撃】を受けた者は〈自省〉を阻害される。
2012-04-08 04:30:00〈自省者〉は成熟を求める者ではあるが、未熟者ではある。だから攻撃を受けることになる。未熟な〈自省者〉にとって〈攻撃〉は成熟への機縁となる。
2012-04-08 04:32:37未熟な〈自省者〉は、未熟であるがゆえに〈攻撃〉と【攻撃】との区別がつかない。だが、この二者は厳密に識別可能であると思われる。この厳密な識別法を体系化するのが「魂の脱植民地化」の任務のひとつ、わけても安冨先生が追究されていることだと私は理解している。
2012-04-08 04:35:47【卑怯者】【弱虫】は〈攻撃〉を非常に怖れる。なぜならそれは、自身が恐怖し、その恐怖から逃れたいと願っている「自身への問いかけ」を誘うものだからである。だから、一見客観的な言辞を弄して防御線を構築しようとする。しかし、必ず穴はある。
2012-04-08 04:41:24【卑怯者】【弱虫】は欺瞞者であるから、かならず見落としがある。高度な欺瞞者ほと高度な防御線を張るのだが、高度は防御線ほど「肝心なところ」が見落とされ、弱点になっている。欺瞞の構造上、どうしてもそうなってしまうものだが、実は「かんじんなところ」ほど一般人にも気がつきにくい。
2012-04-08 04:45:27なぜならそれは、無意識の領域で行なわれることだからである。ここに「内心への踏み込み」の必要性が出てくる。欺瞞の肝心な部分を見破り、〈攻撃〉と【攻撃】の識別を言語化して体系付けようとするなら、内心の言語化は必須である。
2012-04-08 04:47:38だが、人間はときにとことん弱い者になることがある。そのような者は、恐怖の余り、振り返ることなく「最後の一線」を踏み越えてしまう。もしそのような事態が生じたら、「魂の脱植民地化」の旗は深刻なダメージを受けることになる。だから追い詰めすぎてはならない。未熟者がはしゃいではならない。
2012-04-08 04:54:54内心の言語化は〈攻撃〉に他ならない。【弱虫】【卑怯者】への〈攻撃〉は為されなければならないが、問題はある。〈攻撃〉を攻撃として受け取る限り、彼らは逃げるだけだからである。逃げて追い詰められて、最後の一線まで逃げて、行き詰まって振り返ってくれればいい。
2012-04-08 04:51:26