まず石田家について話そう。我ら石田家の祖先については諸説あって、かの源平合戦に参戦していた石田為久の末裔、京極家に仕えていた土豪とも言われているんだ #正澄の石田話
2012-04-14 18:43:16これは私の推測だけど、為久の末裔と言われるのは祖父の為広と名前が同じ「為」であるからだと思う。昔は子が、主に嫡男が親から一文字貰うのが当たり前だったからね。私の名前にも父、正継から「正」の一文字貰っているし #正澄の石田話
2012-04-14 18:48:18あと三成が使っている「大一大万大吉」、あれを為久が使っていたらしいんだ。少し為久の子孫だっていうのも頷けるよね #正澄の石田話
2012-04-14 18:50:37私の前に父上の話をしよう。父正継は文武共に兼ね備えた人だとも言われているんだ。地侍で、大名ではないけれど、有能な方だったそうだよ #正澄の石田話
2012-04-14 19:00:13そんな父の元で生まれたのが私たち兄妹と言う訳だ。私、三成、末の妹の三人兄妹。残念ながら、妹の名前は残ってないんだ…。私の上にもう一人居て、四人兄妹だったっていう説もあるらしいね #正澄の石田話
2012-04-14 19:02:34私の記述もそんなには残ってないんだけど、三成と同じくらいに秀吉様に仕官とは伝えられているよ。故郷の近江で代官職や、奉行をして民政家として活躍したんだ。その働きが認められて、二万五千石も与えられていたんだ。三成に比べれば少ないけどね(笑) #正澄の石田話
2012-04-14 19:07:33そして関ヶ原では三成の居城、佐和山城を父と共に守備をしていたんだ。畿内の領主達の東軍側への参戦を阻止したり、それらを西軍に味方させる為に動いたりとしていたよ #正澄の石田話
2012-04-14 19:13:50でも関ヶ原で西軍本隊が敗れると、佐和山城は東軍に攻められてね、私は大手門を守備して、敵を何度か退けても敗れてね…父と共に自害したんだ #正澄の石田話
2012-04-14 19:16:13私の息子達はというと、二人居たんだ。朝成と主水正。朝成は私と共に自害、主水正は高野山に上るも下りる事になっちゃって、同年に自刃したそうだ。思えば私の息子達は生き延びなかったんだな… #正澄の石田話
2012-04-14 19:24:04三成の長男重家は助命され出家、次男重成は改名して津軽家に仕えたそうで、娘の辰姫はおねね様の養女になったりしたんだ。他にも娘達が居て、何らかの方法で生き延びているよ #正澄の石田話
2012-04-14 19:27:37先ほど言った辰姫は後に弘前藩二代目藩主に嫁ぎ、藩主との間に生まれた子は次の藩主になっている。娘の一人にはその娘の孫があの徳川家光の側室になっても居るんだ。三成の子孫は凄いね #正澄の石田話
2012-04-14 19:31:17妹の子も東北の方で生き延びたと言う話だ。こう見ると、本当私の息子達は…生命力がないのか、運がないのか…(苦笑 #正澄の石田話
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