籠原さん(@suna_kago)の卒論ツイート(4/15)

まとめました。
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籠原スナヲ @suna_kago

志木島啓『柄谷行人 その美学の欠如』( http://t.co/8jQ4MmqK )と、キリンが逆立ちしたピアス『大澤信亮「触発する悪――男性暴力×女性暴力」』( http://t.co/fTPJ3OHQ )とを読んで、ちょっと考えたことをツイートしてみます。 #卒論

2012-04-14 23:13:11
籠原スナヲ @suna_kago

あまり言及されていないが、柄谷行人はフェミニストとしての側面を持っている。たとえば『倫理21』はまず「女性・戦争・人権」学会での講演を加筆したものだし、『言葉と悲劇』と『トランスクリティーク』にはフェミニズムへの言及がある。それらはバトラーやスピヴァクと響き合うものだ。

2012-04-14 23:21:56
籠原スナヲ @suna_kago

その観点からすれば、志木島氏が批判した柄谷行人の性質(美学的な文章を書かない、ラカン派精神分析に依拠しない、ニーチェ的な力の問題に立ち入らない、三島由紀夫や情熱的な恋愛を過剰に肯定しない)は、実は一貫した理由に支えられていることが分かる。それは彼がフェミニストだからだ。

2012-04-14 23:30:38
籠原スナヲ @suna_kago

美学的なもの、ラカン派精神分析、三島由紀夫や情熱恋愛の肯定は、いずれも人をジェンダーの枠組みに閉じ込めかねない。志木島氏は柄谷の「他者」を「中性的・抽象的」だと批判する。しかし、性別のカテゴリや具体的な属性に他者を押し込めることは、それ自体が「他者の排除」になるだろう。

2012-04-14 23:38:16
籠原スナヲ @suna_kago

ニーチェ的な力の問題、あるいは暴力性批判に彼が深く立ち入らないのは、それ自体が暴力になりうるからだ。柄谷は「彼は弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生みだす現実的な諸関係が存することを見ようとはしなかった」と語り、あくまで制度や秩序の問題に留まることを選んだ。

2012-04-14 23:47:51
籠原スナヲ @suna_kago

さて、大澤信亮が柄谷行人の思想から受け継がなかったものこそ、このフェミニズムとしての側面なのだ。彼はあらゆる生命への暴力を「自省」する一方で、他者から男性的暴力を「批判」されることには耐えられない。なぜか? それは、暴力性批判をすること自体の暴力性に極めて鈍感だからだ。

2012-04-14 23:53:48
籠原スナヲ @suna_kago

「国家は、なによりも他の国家に対して国家なのだ」と語るとき、柄谷はまた「私は、なによりも他者に対して他者なのだ」と語っている。暴力性をいくら厳しく「自省」しても、それは安全に痛いままで閉じている。彼の倫理はしたがって、批判への「応答(不)可能性」として捉えられるだろう。

2012-04-15 00:02:33
籠原スナヲ @suna_kago

「食事をすることさえ暴力だ」と自省をする者が、同じ口から「なんでもかんでも俺たち男のせいにするな。もう死んでやる」と暴言を吐くのは明らかに矛盾している(そもそもフェミニズムは「なんでも男のせいにしている」わけでは全くない)。彼は食べ物から批判されることを見ていないのだ。

2012-04-15 00:19:48
籠原スナヲ @suna_kago

まとめ。柄谷は他者をジェンダーのカテゴリや具体的な属性に押し込めるような暴力を振るわない(バトラー的フェミニズム)。他方で、暴力批判によって自身を暴力から免罪するような態度を退け、他者から暴力批判をされることも拒絶しない(スピヴァク的フェミニズム)。肝心なこの二重性だ。

2012-04-15 00:33:49