シラバス論覚書

0
@edouard_edouard

高橋源一郎さん(@takagengen)が「「生きた授業」に「シラバス」なんか害毒」と発言なさっている。発言意図が全く理解できないのではないけれど、シラバスは、(授業登録までの間は)まだ見ぬ学生とのコミュニケーションの場でもある。登録後は、学生の自習、独習を助けるものでもある。

2010-06-07 07:13:49
@edouard_edouard

高橋源一郎さん(@takagengen)、「教わる」シリーズ、深い共感をもって拝読しました。僕はひとりの学生として先生が講義中一言も喋らなくたって学ぶことがある、ということを経験的に知ることに恵まれたものです。しかしそれとは別の仕方で制度が教育を支えることがあるだろうと思います。

2010-06-07 07:24:21
@edouard_edouard

@takagengen 応答をありがとうございます。私も精一杯応答し返したいと思います。「意味のないシラバス」はありません。意味を吹き込まれなかったシラバスがあるだけです。教員の思いとその方針とを広く伝える場が増えることは講義の内容に拘らず意義深いことだと考えます。

2010-06-07 07:27:19
@edouard_edouard

個別の事例ではなく、制度の問題です、と言うこともできますが、ただ必修でほとんど埋まってしまう場合や、逆に選択科目が多すぎる場合には学生がシラバスを読まない状況を作り出すこともあるな、と思いました。RT @ukalyabani: 僕学生だけど、シラバス見たことない。

2010-06-07 07:32:14
@edouard_edouard

@takagengen 「ぼくは「シラバス」には、こちらからのメッセージを伝える内容を書くようにしています」とありますが、まさにシラバスとはそのようなツールだと思います。であればなおさら「「生きた授業」に「シラバス」なんか害毒」とのお言葉は残念です。(続)

2010-06-07 08:11:58
@edouard_edouard

.@takagengen (承前)繰返しになりますが、「意味のないシラバス」はなく、意味を吹き込まれなかったシラバスがあるだけです。こちらはより言い方が難しいのですが、シラバスをきちんと書く、ということは学生と大学に対する応答責任を果たす、ということだとも考えます。

2010-06-07 08:15:26
@edouard_edouard

@takagengen ひろく誤解を招きかねない類のお言葉だと思ったので拘泥いたしました。先生の教え子でもない他大の一学生である私ようなものに対して、真摯に応答してくださり、ありがとうございました。

2010-06-07 08:40:11
@edouard_edouard

必修科目あるいは選択科目数の過多にあってシラバスが有効に機能していないという現状認識は理解できます。ひとつ、独学のツールとしてのシラバスを有効に活用できるかどうかは端的に僕を含めて学生の責任。もうひとつ、シラバスは実際は教育活動の評価基準を提供します。 @ukalyabani

2010-06-07 15:18:42
@edouard_edouard

これは近年学術会議で議論されている「学士課程教育の質保証」の話になりますが、定量的な評価が難しい教育活動に対して一定の客観性を持った評価基準の導入の必要性についての議論です。ここでシラバスは一つの重要な指標となります。@ukalyabani

2010-06-07 15:21:08
@edouard_edouard

アドミッションポリシ―、ディプロマポリシ―、カリキュラムポリシーを全大学的に一定のフォーマットに沿って言語化し、個別の大学のポリシ―に応じて全制度を有機的に関連づける。適切な関連付けがなされているかの評価の要の一つとなるのがシラバスです。@ukalyabani

2010-06-07 15:24:57
@edouard_edouard

@ukalyabani と絡んでしまいましたが、実際に選択科目過多の状況化にあって形骸化している、というご指摘に意義はありません。ただ、形骸化していることが、その状態からぬけ出す(教員の、また学生の)努力の放棄を正当化するわけではない、ということが要点でした。長々と失礼しました。

2010-06-07 15:28:09
@edouard_edouard

独習、自学を可能にするツールとしてのシラバス、教員から学生へのコミュニケーションの場としてシラバス。僕が所属している国際基督教大学では開講科目の数も多すぎず、半日あればその学期のシラバス全てを読むことができるだろう。科目数が少ないとぼやいていた一年の春はもう大分昔のことのようだ。

2010-06-07 15:31:53
@edouard_edouard

科目の選択制は、学生が自ら中長期の学習計画を立てることが出来、シラバスを読み解く能力のあることを前提としている。極論を言えば選択制は教育の放棄とも言えるだろう。選択制をとるのであれば、適切な誘導と、それにましてどの科目をとっても最終的に全科目間の有機的連関がとれる工夫が必要。

2010-06-07 15:36:56
@edouard_edouard

田中純先生は「自分が受ける教育の制度や方法について、学生が自己言及的に悩まねばならないという状況は、決して幸福ではない」と指摘された。完全に同意するものではないが、しかし考えさせられる。大口を叩くことが許されるなら、これを時代の要請とみて、この時代に学生である僕は引き受けたい。

2010-06-07 15:42:52
@edouard_edouard

「自分が受ける教育の制度や方法について、学生が自己言及的に悩まねばならないという状況は、決して幸福ではない。」http://bit.ly/c2mfCV

2010-06-07 15:43:07
@edouard_edouard

「カリキュラムポリシーを全大学的に一定のフォーマットに沿って言語化」としたが、これは勇み足との批判も受けるだろう。大学の自主性、自発性、あるいは古い言葉でいうならば「大学の自治」、を損なうものだとの意見もある。実際安易な制度改変は教育の現場を壊滅させてきた。議論は単純ではない。

2010-06-07 15:55:46
@edouard_edouard

これはかなりの勇み足で断言するに気が引ける類の私見、臆見なのだが、学士課程教育は実質「本来的に」あるいは「事実として」すべて教養教育。理学士、文学士といった学士の区別も実際には大学院との関連においてしか社会的な意味を一切持たない。教養教育の意味は何か。学ぶ主体の形成である。

2010-06-07 16:05:03
@edouard_edouard

医学部は学士課程だけで完結されないようにデザインされているので例外。あれは高度職能開発、職業教育だ。

2010-06-07 16:07:23