@maru_ni_Y 当初は鈴木喜三郎政友会総裁への大命降下が有力視されていましたが、時局の波乱と鈴木への不安が、斉藤への大命を導いたというのが通説ですね(北岡伸一『政党から軍部へ』有馬学『帝国の昭和』)。この辺りのことはよく分かっていないのが現状のようです。
2012-04-25 21:01:27@maru_ni_Y ただ当時は誰も政党政治の終焉は考えておらず、斉藤内閣はあくまで暫定的なものとする見方が一般的だったようです。牧野が清浦を推したのは興味深いエピソードですね。恐らく政党と距離のある政治家で時局に暫定的に対処する狙いがあったのではないでしょうか。
2012-04-25 21:03:59@NaoyaSugitani >「当時は誰も政党政治の終焉は考えておらず暫定的」 そうなのですか。そうなると次に岡田が担ぎ出された理由が気になります。その後も政党政治復活の芽は幾度かあったのでしょうか…?
2012-04-25 21:07:23@maru_ni_Y 斉藤・岡田に共通しているのは海軍穏健派だったという点です。最新の研究で立憲民政党は政権獲得への道を放棄したことが明らかになっています。対する政友会は政権獲得への志向性を捨てませんでしたが、岡田内閣(民政党が実質与党)下の選挙で政友会は敗北しました(続)。
2012-04-25 21:10:51@maru_ni_Y (承前)結果として政友会も「政権獲得を標榜したままでは選挙に勝てない」ということになり、政党が政権獲得という目的を自ら放棄して政党内閣制への道は絶たれました。決定的だったのは政党が自ら政権獲得を放棄した点ですね。これが戦前の政治の道を決定づけました。(続)
2012-04-25 21:16:53@maru_ni_Y 岡田内閣の際にとられたのは重臣会議という首相OBが次の首相の候補を選定するという方式でした。その際に出席したのが当時民政党総裁だった若槻礼次郎です。若槻には別の政党の政友会の鈴木を推すという選択肢はあり得ませんでしたし、自身を推すことも非現実的でした。
2012-04-25 21:18:51@maru_ni_Y 若槻以外も誰も政党から首相を選出する意見を出しませんでした。理由は恐らく斉藤内閣の安定化路線を引き継ぎ海軍穏健派の岡田を担ぐことで時局を安定させようと考えたからでしょう。ここでポイントなのは若槻が岡田内閣に同意したことで民政党が実質与党になった点ですかね。
2012-04-25 21:21:03@maru_ni_Y 政党復活のチャンスはあったかもしれませんが、そもそも政党が求心力を失った時点で復帰は難しかったですね。時局が安定すればあり得たかもしれませんが急転し続ける時局の前に政党の出る幕はありませんでした。政党政治については色々研究がありますのでまた参照して下さい。
2012-04-25 21:23:33@NaoyaSugitani 政党が求心力を失っていたとなると難しいですね…政党内閣が成立しても安定しないでしょうし 安定した政権を目指すとなるとやはり限られますね…
2012-04-25 21:28:12@maru_ni_Y 政党内閣にとって必要だったのは憲政の常道の安定化だったのですが、その余裕が無かった点と時局の変動が急過ぎた点、そして帝国憲法による個別の大臣輔弼制が裏目に出た点が大きかったですね。決して政党の権力基盤は脆弱では無かったのですが弱点が悉く露呈してしまいました。
2012-04-25 21:33:01①斉藤内閣成立時誰もこれが政党内閣の終わりだと自覚していなかったこと ②斉藤内閣崩壊後次期首相選定の為にとられた方式が重臣会議だったこと。※重臣会議とは首相OBが次期首相選定に関与する方式のこと ③政党が自身の存続の為に自らの存在理由である「政権獲得」を否定したこと
2012-04-25 23:31:13以上が私の思う政党政治崩壊の理由。①については有馬学氏が、③については井上敬介氏が指摘しているが、②の指摘はあまりなされていないがあえて強調したい。特に②の重臣会議の際に、若槻礼次郎(民政党総裁)が参加していた意義は小さくないと思われる。今後更に考察、検討したいところである。
2012-04-25 23:33:42