NaoyaSugitani氏による立憲民政党・若槻元首相をはじめとする政党政治史論

第1目的は自分用。折角の意見がツイートの波に埋もれていくのがあまりに勿体無いので、ふぁぼっていた分だけでもサルベージと思い、作成。 ※ただ発言順で並べるより、それなりに文章が繋がっているように構成したかったので、時系列順にはなっていません。 ●5月2日:編集・記事追加など 続きを読む
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@NaoyaSugitani

また大臣の問責が出たらしい。政党政治というのは与党の足を野党が引っ張るもんだから別に何とも思わないが、「政局ばかり見ずに国民のことを…」という的外れな批判は何とも。国民のこと(党のこと)を考えての政局、足の引っ張り合いなんだがね。それが気に入らん人は一党独裁制をどうぞ。

2012-04-08 12:19:44
@NaoyaSugitani

政党政治の構造と歴史をよくわかってない人が多すぎるんだよな。だから何となくの不満だけをぶつけて変なのが出てくる。政治とは魔法のステッキではない。「政治というのは固い板にこつこつと穴を開けていくような作業」というのがウェーバーの評価。これを国民全員が意識しないと政治は機能しない。

2012-04-08 12:24:53
@NaoyaSugitani

しっかし昨今の密談の問題。くだらないことマスコミも政治家も追及するなあ。極秘会談することがなぜいけないのか?皆儒教的な徳の政治でもやろうとしているのか。政党政治への理解もしないで感情論を振りかざすことがいかに非生産的かいい加減理解しないとそろそろ限界だぞ。

2012-03-02 12:24:07
@NaoyaSugitani

別にいいじゃないか。そうしてコンセンサスとって妥協して政策進めるのが政党政治。もしそれが理解できない人は、大正時代の政党政治を一から勉強して欲しい。それでも密室政治にノーというなら、政党政治に変代わる政治体制を模索せよ。

2012-03-02 12:26:13
@NaoyaSugitani

私達国民は、その姿を見て正当に評価するようにしなければならない。頭ごなしに駄目というだけ、否定するだけの楽な志向に慣れ切った結果、橋下さんのような全否定論者が生まれた。否定の先にあるのは、貧しい現実だけ。悪い政治家や公務員もいる。だが、その逆もいる。その簡単な事実を受け入れよう。

2012-03-11 19:51:19

「平和主義者」とされる政治家について

@NaoyaSugitani

私はいわゆる「東京裁判史観」とかいう中身の無いレッテルは大嫌いだが、若槻・幣原ら民政党系政党政治家を「平和主義者」とし、岡田・米内ら海軍軍人を良識派として「海軍善玉論」を生みだした背景の一つには間違いなく連合国側の思惑がある。この認識こそ「東京裁判史観」なのかもしれない。

2012-04-07 00:44:14
@NaoyaSugitani

幣原喜重郎は戦後総理大臣になったが、それも親英米派で和平派だったという「イメージ」によるところが一つあった。こうした認識は、ロンドン条約も相俟って戦後民政系代議士=平和主義者というイメージを作りだした。海軍善玉論と同じく、このイメージは長く戦後日本に残留した。

2012-04-07 00:45:53
@NaoyaSugitani

宇垣一成をどう位置付けるかは難しいが、戦前の宇垣待望論もあってか、彼を肯定的にとらえる見方も多い。もはや多言を要さないが、若槻・幣原らは「平和主義者」ではないし、「海軍善玉論」は幻。そもそも戦前の和平派と戦後の九条的平和主義者を同列にする人が多すぎるのが問題。

2012-04-07 00:48:07
@NaoyaSugitani

山本五十六が平和主義者というのも間違い。当時の平和主義と現在のいわゆる平和主義を混同してはいけない。戦前の和平派はあくまで国益に則して考えて対米開戦に反対しただけであって、非武装論者でもなければ博愛主義に基づいての反対でも無かった。そのイメージを払拭することは重要だろう。

2012-04-07 00:51:30

※幣原と宇垣について

@NaoyaSugitani

無論政友会にもこうした協力者の存在があったことは間違いない。だが、民政党に関しては宇垣・幣原らは極めて優秀な存在であったことが大きかった。こうした理解者・協力者たちが憲政会・民政党内閣の後ろ盾となっていた。彼らの役割についても今後検討したいところではある。

2012-04-20 21:19:37
@NaoyaSugitani

後発で紆余曲折を経てまとまった憲政会・立憲民政党が立憲政友会に並び立つ二大政党として、その地位を確立できた理由の一つには各勢力の民政党協力者の存在が大きかった。海軍の財部彪、陸軍の宇垣一成、外交の幣原喜重郎はその代表と言える。宇垣は民政党からの選挙出馬も噂されたほど。

2012-04-20 21:18:15

※もとへ

@NaoyaSugitani

閑話休題。東京裁判の首席判事だったジョゼフ・キーナンが「日本の平和主義者たちをもてなす会」を開いた。その会に呼ばれた人物は四人。岡田啓介、米内光政、宇垣一成、若槻礼次郎の四人だった。この話は結構好きでちょくちょく周りの人にもする。政党政治家が一人だけで他は軍人というのがミソ。

2012-04-07 00:33:34
@NaoyaSugitani

もう一つのミソは総理大臣未経験者が一人だけで、それが宇垣一成だという点。キーナン(米国)の認識も含め、このエピソードの有する歴史的な意義は小さくないと思われる。この四人の人物に何を思うのかは人それぞれだろう。言うまでも無く、四人ともいわゆる憲法九条的な「平和主義」者ではない。

2012-04-07 00:37:45
@NaoyaSugitani

もうひとつ面白いのが、若槻はこの話を回顧録で詳細に書いているのに対し、岡田はそのエピソードを回顧録に書いてないこと。宇垣の日記に書かれていたかどうか記憶は定かではないが、これが何を意味するのかはそれぞれが考えていいところだと思う。

2012-04-07 00:41:58

立憲民政党=憲政会+政友本党

@NaoyaSugitani

もし憲政会・民政党期に島根県で大きなインフラ整備が進んでいたら、従来の憲政会・民政党は都市型政党であり、地方開発には消極的だったという評価を相対化出来るんだけどなあ。後貴族院とかの議事録。あれにもし端的でも動きがあればいいんだが。いずれにせよ明日の調査は心して取り組むことにする。

2012-03-30 00:19:03
@NaoyaSugitani

立憲民政党を検討する上で、蔑ろにされがちなのが旧憲政会系と旧政友本党系の対立構造である。島根県では特にそれが激しかったらしく、松江市議選、市長選では旧憲政会系と政友会系が合同して政友本党系と戦ったとかいう。また支部の代表を決める際も、話がつかずに若槻が介入して決定したとか。

2012-04-06 20:47:33
@NaoyaSugitani

そもそも民政党結成後すぐにあった八束郡補選において、既に旧憲政会と旧政友本党は折合いがつかず、選挙戦を戦う関係となった。衆院選と県議選では概ね関係は良好だったのだが、対立は続いており、議会においては幾度となく衝突したという。以上は全て大阪朝日島根版(1940年)による。

2012-04-06 20:49:24
@NaoyaSugitani

島根県議会史にも再注目せねばならない。民政系が二分されたという議会の様子が記されている筈だからだ。民政党の支部長は佐藤喜八郎、俵孫一、天野(名前不明)と憲政系が続いた様子。俵就任の背景には若槻の影響力があった。また、政友本党系の不満分子を櫻内幸雄が説得していたことも分かった。

2012-04-06 20:55:21
@NaoyaSugitani

その点では、全国紙の『大阪朝日新聞山陰版』の方が地方政局について充実している。中央政局や軍事関係については全国版で紹介しているので、十分に紙面を割けたのだろう。ちなみに政友会寄りとされる『山陰新聞』は政友本党に近い立場だったらしく、櫻内幸雄の主張を載せていた。

2012-04-05 19:48:44
@NaoyaSugitani

その点で考えると、『山陰新聞』が来県した床次竹二郎に好意的だったことにも説明がつく。とすると政友本党と憲政会が合体して民政党が成立した以降は、『山陰新聞』と『松陽新報』の二項対立も少し距離を置いて考える必要があるかもしれない。民政党成立後の県政界の様子は考えるべきだろう。

2012-04-05 19:51:49
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