NaoyaSugitani氏による立憲民政党・若槻元首相をはじめとする政党政治史論

第1目的は自分用。折角の意見がツイートの波に埋もれていくのがあまりに勿体無いので、ふぁぼっていた分だけでもサルベージと思い、作成。 ※ただ発言順で並べるより、それなりに文章が繋がっているように構成したかったので、時系列順にはなっていません。 ●5月2日:編集・記事追加など 続きを読む
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@NaoyaSugitani

ただ残念なのが大阪朝日の記事に載っていた支部長交代における悶着や県議の急死に伴う政友VS民政の補選全面対決に関する記事が見つからなかったことだろう。支部の悶着については内部の問題の為、民政党が秘匿していた可能性が高いが。今後更に入念に調査せねばならない。

2012-04-06 20:51:19

島根県における旧憲政会と旧政友本党の対立

@NaoyaSugitani

ここで一つ仮説が出来る。島根県(地方)における民政党基盤の形成は、若槻礼次郎(憲政会)櫻内幸雄(政友本党)といった有力者が県内の旧憲政系と旧政友本党系の対立を緩和し、党を維持していたという構図。しかし、それでも県議会や選挙において両派は度々対立した。

2012-04-06 20:57:51
@NaoyaSugitani

従来の評価でいえば、民政党は「都市ブルジョワ政党」であり、政友会を二分した大政党である。しかし、島根一つを見ても分かるように底流には旧憲政系と旧政本系の対立が残っていた(升味氏は結党前後や床次竹二郎脱党前後の動揺に言及)。民政党の地域基盤は、まだ不安定なものであった。

2012-04-06 21:00:35
@NaoyaSugitani

それを繋ぎとめ、維持していたのが若槻、櫻内、原、俵ら中央政界にも通じる影響力を持つ政治家たちだった。彼等はそれぞれの出身派閥の代表として不満を吸収しつつ、民政党島根支部の維持・運営に努めた。彼らの存在があったらからこそ、島根支部は機能し得たといっても過言ではないかもしれない。

2012-04-06 21:02:36
@NaoyaSugitani

1937年の林銑十郎内閣の総選挙において、若槻の側近で憲政系の代表格だった木村小左衛門が落選している。これは、民政王国の終焉と呼ばれる事態だったが、政本系議員はいずれも当選している。なぜこうした事態が起きたか、背景には若槻が民政党から離れていったことが一つ考えられる。

2012-04-06 21:04:21
@NaoyaSugitani

若槻は斉藤内閣期以降、重臣として国家に関与する立場になった。その際、民政党総裁という肩書が問題になった。つまり、国家そのものの問題として首相候補を考えると、党益を踏まえねばならない若槻の総裁という立場は微妙なものになってしまった。若槻は総裁を辞任し民政党から距離を置くようになる。

2012-04-06 21:08:09
@NaoyaSugitani

木村小左衛門にとって、若槻の名声というのは極めて大きかった。彼の選挙広告を見ると、若槻の名前が度々登場している。若槻の喪失は、木村が一敗地にまみれる原因の一つになったと思われる(勿論実証的な裏付けが不可欠)。以上、今回の調査を踏まえた考察と仮説。今後更なる調査・研究を続ける。

2012-04-06 21:11:18

島根県の政治家たち

@NaoyaSugitani

今回は島根県出身の代議士をまとめ、16回~20回の総選挙の結果を表にした。それぞれの出身議員の出身地がばらばらでなのが一つの傾向。また、選挙についてはずば抜けて強いという人物は無い。これが何を意味するのかは気になるところ。また出身議員の多くが錚々たる経歴を持つ所謂大物議員である。

2012-04-30 22:43:34
@NaoyaSugitani

木村小左衛門…若槻礼次郎の側近として首相秘書官などを歴任。戦後も代議士として活躍。②櫻内幸雄…商工大臣・枢密院顧問官などを歴任。息子の義雄は自民党の有力議員。③俵孫一…商工大臣を務める。党の長老格。翼賛政治運動に参画。④原夫次郎…戦後に初代島根県知事(最初の公選知事)となる。

2012-04-30 22:44:40
@NaoyaSugitani

島田俊雄…政友会の大物。党要職を務め、大臣職も歴任。  ①~④は若槻と同じ立憲民政党の政治家。⑤の島田は政友会の大物議員。このように島根は大物議員を多数輩出する有数の要所だったことが分かる。

2012-04-30 22:44:59
@NaoyaSugitani

恐らく島根の彼等は一定の地盤を以て連続当選を果たし、党に影響力を持っていったのだろう。今後実証的な考察と裏付けが不可欠になる訳だが。

2012-04-30 22:45:54
@NaoyaSugitani

後特徴的なのは所謂既成政党が地盤を保持し続けて社会大衆党といった第三勢力が食い込まなかったことか。農本主義運動などは一切見られず新聞からは「民主主義の手本となるべき県だ」などと評されていたな。今日にもつながるものを感じる。

2012-04-30 22:47:54

当時の新聞を見る

 「政友本党」は名前の通り、もとは「立憲政友会」所属の議員によって結成された党である。大正後期の清浦圭吾内閣への対応をめぐって、野党路線を主張する高橋是清総裁(元首相)に対し、与党路線を主張した床次竹次郎を中心とする勢力が「本党」を結成した。
 直後の大正13年の総選挙で、加藤高明(憲政会)・高橋(政友会)・犬養毅(革新倶楽部)のいわゆる「護憲三派」連合に、政友本党は敗北。その後、本党は憲政会と政友会を天秤にかけて「第三極」を狙ったが、政友会への復党者が相次ぐなどして党勢は尻窄みとなり、結局憲政会に吸収されるような格好で「立憲民政党」の結党となった。
 とはいえ、もとは政友会の議員だったのが、今度は最大の対立政党だった憲政会と一つ屋根の下になるわけで・・・当然、議員の選挙区の後援会や地方新聞の対応にも影響が出てくる。その辺の話から。

@NaoyaSugitani

@hirataitaisho それを決め付けるのはまだ早計でしょうが、少なくとも『山陰新聞』は民政党の結成には好意的ですね。ただ政友本党の中には憲政会と合体するのを嫌がって政友会に帰った者が全国にいて、島根県でも相当それが問題になりました。櫻内だけの動向では判断できかねます。

2012-04-05 19:56:29
@NaoyaSugitani

@hirataitaisho 粟屋憲太郎氏は地方紙が各地の政党の機関紙的な役割を果たしたと論じていますが、島根・鳥取は特に顕著でしたね。こうした地元メディアの役割はあまり論じられていないように思うので、今後まとまった研究が出てくるのではと思っています。

2012-04-05 19:58:09
@NaoyaSugitani

@hirataitaisho そうですね。戦前の地方新聞はあまり残っていないケースも多いので、体系的にまとめるのが難しい情況もあるのです。沖縄は特に沖縄戦で新聞が散逸している為、当時の状況が分かりにくくなっています。

2012-04-05 20:23:00
@NaoyaSugitani

今日『山陰新聞』で見つけた記事。犬養毅総裁の本を紹介している。1930年の選挙直前の記事。『山陰新聞』は政友会系であると判断して相違ないだろう。床次に対して同情的ではあったが、立場的に政友本党=民政党支持に転向した訳ではなさそうだ。 http://t.co/rIaHkyDG

2012-04-06 21:25:38
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 1930年(昭和5年)の第17回総選挙で、政友会174議席に対し民政党は273議席と圧勝。浜口内閣は、ロンドン海軍軍縮条約と金解禁を断行することになる。

@NaoyaSugitani

これは『民政党罪悪史』という東京革新記者連盟が編著した本である。この広告は選挙間近の1932年の山陰新聞に掲載された。曰く「若槻氏や井上氏が真の日本人、真の政治家なら腹を切って申訳する処だ。」「国民よ!ウソツキ政治家に騙されるな。」 http://t.co/caPq6C72

2012-04-17 19:14:27
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@NaoyaSugitani

次は政友会の選挙スローガンだった「景気か不景気か」を前面に押し出した広告。同じく掲載は1932年の選挙間近の山陰新聞。 http://t.co/RBh3tlJS

2012-04-17 19:15:57
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@NaoyaSugitani

これは視覚的に分かりやすく作製した政友会の広告。 http://t.co/rjJPvcHX

2012-04-17 19:17:22
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@NaoyaSugitani

これも政友会の広告。金解禁と外交問題で民政党を非難する政友会のポスター。当時の二大政党制の強烈なネガティブ・キャンペーンの一環。 http://t.co/KEcOrfs9

2012-04-17 19:18:27
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