NaoyaSugitani氏による立憲民政党・若槻元首相をはじめとする政党政治史論

第1目的は自分用。折角の意見がツイートの波に埋もれていくのがあまりに勿体無いので、ふぁぼっていた分だけでもサルベージと思い、作成。 ※ただ発言順で並べるより、それなりに文章が繋がっているように構成したかったので、時系列順にはなっていません。 ●5月2日:編集・記事追加など 続きを読む
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@NaoyaSugitani

最後は民政党の広告当時の総裁若槻礼次郎の写真がある。山陰新聞は政友会系の筈だがこうした民政党の広告も載せていた。 http://t.co/nCteEyLj

2012-04-17 19:19:53
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@NaoyaSugitani

この『民政党罪悪史』の広告と説明文は面白い。目次を見てみると「馬鹿を見た国民」「一切が嘘だった」「嘘で固めた予算」等等民政党への痛烈な批判が続く。内容は字面から推して図るべきだが、これを今の民主党に置き換えてみたら、来年の総選挙直前に産経新聞あたりが出しそうなものである。

2012-04-17 19:22:41

 統帥権干犯問題・世界恐慌下での金解禁がもたらした不況・浜口首相銃撃事件(横死)・第2次若槻内閣と満洲事変。政党政治の凋落と軍部台頭の兆しが見え始める中、むかえた1932年(昭和7年)の第18回総選挙は、政友会が史上空前の300議席を獲得する大勝(民政党は146議席)となった。
 しかしその3ヶ月後、五・一五事件によって犬養政友会内閣は倒れ、斎藤実・挙国一致内閣の成立によって戦前昭和の政党内閣時代は終焉を告げる。

@NaoyaSugitani

結論を言うと日本で政党政治をやるというのはこういうことなのだ、ということだろう。一見すると80年前から何一つ政治を取り巻く言説は進歩していないように思われる。なぜなら、同じ政党政治でそれも二大政党制という背景があるからだ。という訳でぜひ『民主党罪悪史』を出してもらいたいところだ。

2012-04-17 19:25:02

犬養ェ・・・

@NaoyaSugitani

まあそんな非政友路線でやって来た犬養がまさか政友会で首相になって最期を迎えることになるとは当時誰も夢にも思わなかっただろう。考えてみれば、政友会の総裁経験者は七人中実に伊藤・原・高橋・犬養の四人が暗殺という最期を遂げている。何かと災難が多い政党でもあったりする。

2012-03-28 00:37:32

若槻礼次郎元首相と大正末・昭和初の政局

@NaoyaSugitani

今ずっと思い悩んでいるのは「歴史人物の評価」と「客観性」について。これを深刻に考えるようになったのは奈良岡聰智氏の一連の研究を読み始めてから。氏は加藤高明を大絶賛する一方で、後継の若槻礼次郎や浜口雄幸については辛辣な評価を下している。私はこれに触れた時言い知れぬ違和感を覚えた。

2012-04-24 19:34:33
@NaoyaSugitani

@hirataitaisho これは憲政会というよりは政党そのもの問題と言えるでしょう。一人の求心力のある総裁・代表が突然退くと、その後は多くの場合混乱するものです。それは後継者の政治指導力不足だけでなく、政党の抱える根本的問題ととらえるべきですね。

2012-04-23 20:54:35
@NaoyaSugitani

だからと言って当時の若槻の政治手腕については多くの問題があったことは間違いない。奈良岡氏の言うとおり彼の政治指導力は決して高いものではなかった。自身の役者不足については本人も自覚していた。

2012-04-23 19:49:44
@NaoyaSugitani

私は島根に来てから、若槻礼次郎に最初に興味を持ち始めた。調べていくうちに櫻内幸雄、俵孫一・木村小左衛門といった島根出身の代議士にも深い関心を抱くようになった。だが一方で(これは某教授も言われたが)人物評伝から入るのは邪道であるという認識を常備し、可能な限り客観性を意識してきた。

2012-04-24 19:36:55
@NaoyaSugitani

勿論政党政治と政治家だけでなく、戦争や軍部、台湾・思想等勉強してみたいテーマは山のようにある。その中で卒論では腰を据えて向かい合えるテーマとして地域と政党の観点から立憲民政党と島根県を取り上げた。これをたたき台にして今後も何らかの展開が出来たらと思っている。

2012-04-24 19:39:04
@NaoyaSugitani

だが親近感というか、好悪の情はどうしても沸いてしまう。自分の関心のある人物について何か言われているとどうしても一言物申したくなる。それは、好き嫌いなどではなく単純な違和感や感想からくるものであってほしいのだが、実際は情から来ている部分が大半だろう。

2012-04-24 19:40:49
@NaoyaSugitani

正直政党政治だけに拘泥され続けるのもいかがなものかと思っているし、一人の歴史人物を中心に評伝を書き、通説を再検討するのはもっと研究実績を積み重ねた上で、と思っている。だから、先行研究の取り上げる人物評に拘泥されている時間は無い筈なのだが、どうしても拘りたくなる自分がいる。

2012-04-24 19:42:12
@NaoyaSugitani

理性的に、あくまで客観性を持って歴史を取り上げたいという自分と単純な興味と好悪の情に訴えたい自分の板挟み。勿論望ましいのは前者だし、自分の実力的に考えてもまだ後者で完成された評伝を書くのは出来ない。だがどうしても後者の自分を殺しきることが出来ずにいる訳で。非常に困っている。

2012-04-24 19:43:41
@NaoyaSugitani

しょうがないので今日一日作業の合間を縫って考えてみたことを今から論じたい。テーマは「第一次若槻内閣期の党運営と解散回避をめぐる若干の考察」

2012-04-24 19:44:37

第一次若槻内閣期の党運営と解散回避をめぐる若干の考察

 加藤高明首相が大正15年1月に急死。元老・西園寺公望の奏薦により組閣の大命は、内務大臣・若槻礼次郎(加藤没後の憲政会総裁)に下った。
 最初、憲政・政友・革新の「護憲三派」による連立政権だった加藤内閣は、大正14年早くも政友・革新の政権離脱で、憲政会単独政権となっていた。憲政会は議会第一党ではあったものの、単独では衆議院の3分の1程度(151/464)の議席を有するに過ぎず、議会対策における政友会および政友本党との距離のとり方をめぐって、憲政会内部で対立が見られた。
 「朴烈事件」など議会外での問題もあって、議会・党対策に窮した若槻首相は、田中義一・政友会総裁、床次竹次郎・政友本党総裁との三党首会談において、大正天皇崩御による諒闇中を理由に政争の停止を要請。合意を得られたものの、この会談が「密室談合」「田中もしくは床次に政権譲渡の密約を与えた」と攻撃され、その立場を一気に悪化させることになる。

@NaoyaSugitani

奈良岡氏は新進気鋭の学者であり、氏の加藤高明についての研究成果は目を見張るものがある。しかしながら、氏はしばしば必要以上に加藤を評価し、反面で他の政治家を過小評価する傾向にあると思われる(主観)。その最たる例の一つが若槻礼次郎だろう。確かに彼の党運営には問題があった。

2012-04-24 19:46:00
@NaoyaSugitani

それは既に奈良岡氏が論じているところではあるが、一つ決定的に欠けている視点がある。氏は若槻の手腕不足と党運営を批判しているが、まず何よりも若槻を後継に指名したのは加藤その人である。その加藤の任命責任を問うことなく若槻の指導力不足を批判するのはいかがなものだろうか。

2012-04-24 19:47:08
@NaoyaSugitani

寧ろ問題だったのは加藤急死という急転直下の事態の中、担ぎ出された若槻には党運営を満足に調整する時間も余裕も無かった。憲政会が加藤個人の力によってまとまっていたことは、氏が既に証明しているが、それは憲政会が加藤の憲政会であったことに他ならない。

2012-04-24 19:48:52
@NaoyaSugitani

若槻の指導力に相当の問題があったことは既に奈良岡氏の明らかにするところである。党運営の混迷は、若槻の指導力不足と同時に加藤亡き後の憲政会が大きく動揺し、加藤に代われる人物がいなかったことに起因している。これは憲政会の構造上の問題であり、若槻でなくとも党運営は難しかっただろう。

2012-04-24 19:50:18
@NaoyaSugitani

党の有力なスポンサーだった仙石貢が党を離脱した件について、若槻の不徳を非難している氏だが、これはむしろ加藤とその個人的ネットワークに依存していた憲政会の脆弱な財源という弱点が露呈した結果だろう。憲政会は与党でありながらほぼ加藤の実力によって成り立っており、党としては不完全だった。

2012-04-24 19:52:16

 原敬・政友会政権の前に立憲同志会(憲政会)が苦汁をなめ続けた十年間、しばしば加藤高明総裁を引きずりおろそうという動きがあったが、加藤は妻の実家・岩崎家、すなわち三菱財閥の資金力を背景に、こうした動きを退けていった。
 ちなみに加藤が総理になれない(=憲政会が選挙に勝てない)のは、加藤が第二次大隈内閣の外相時代に行った「対華21ヵ条要求」が山縣・西園寺ら元老の意に反するものだった故に、元老による首相奏薦の対象から外されているのだというウワサもあった。

@NaoyaSugitani

党運営が混乱をきたした背景には、加藤という強力な総裁を失った途端瞬く間にネットワークが崩れ、加藤に代われる人材がいなかったという点にある。若槻が失敗の政治家という認識を持たれているのは、彼がピンチヒッターとして登板したという点も大きい。これは後の民政党でも繰り返された。

2012-04-24 19:54:18