徳島県の大正以降の心形刀流の話とか
- inuchochin
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先日書いた徳島の貫心流関係文書。http://t.co/37KkDMEd大正8年の武徳祭でも大島寛太郎・佐藤永太郎で心形刀流の形が演武されてる。、大島佐藤の年齢によるだろうけど、弟子くらいは生きててもおかしくないかも。@SagamiNoriaki さんどっかで名前みてません?w
2012-05-03 09:55:21@inuchochin うーん。徳島県は空襲あっているので、意外と古文書とか資料の類って少ないんですよねー。けど武徳会関係だったら県立武道館にいけば意外とあるかも…?図書館の方には確かなかったと思いますが。というか佐藤永太郎って、常志子の井後哲五郎の兄、佐藤丞三郎の末裔かしら?
2012-05-03 10:39:56@SagamiNoriaki 井後さんってのは北海道へ行った方でしたっけ(忘れた) 佐藤永太郎が仕太刀やってますから弟子ですかねー
2012-05-03 10:42:30@inuchochin 北海道にいったのは、この人の弟子で免許皆伝もらった坊さんですね。名前忘れましたけど井後さんの名前でぐぐったらでてきたと思います。徳島の心形刀流は「原士」という阿波の士分でも特殊な身分の中で盛んだったようで、井後さんは父や兄に学んでから江戸で号を得たとか
2012-05-03 10:46:08@SagamiNoriaki なるほど。心形刀流は初伝の形十本は伊勢、平戸の両方で残ってますし、これで阿波伝もあればおもしろいんですけどね。
2012-05-03 10:48:45@inuchochin 徳島の郷土史関係資料の小冊子「史窓」の二号に、常志子の弟子は原士のいた市場町を中心に二千人いたとか書いてるんですけどねー…市場町には十年前にいきましたが郷土史家によると伝わってないそうで…ただ、井後さんは市内でも教えていたそうなので、あるいは…とは思います
2012-05-03 10:54:05徳島には「原士」というやや特殊な身分があって、詳細は忘れたけど通常の藩士よりやや下の身分として扱われてたらしい。それゆえにか武術修行に励んでいたという。原士は心形刀流が盛んで、伊庭家の出す「常○子」の号を得てた人間は何人かいたそうだ。しかし現在ではもう伝わっていない…という話
2012-05-03 10:49:31原士のいた市場町にはもうすでに心形刀流の伝はないって地元の郷土史家に確認済みなんだけど、市場町の近所にある切幡寺の三重の塔には「相心流」の奉納額があった。改築工事以降もまだあるのかしらね…武芸流派大事典によると「詳細不明」だとか…棒術とあるけど、額には鎖鎌から木刀が飾ってたね。
2012-05-03 10:58:04@SagamiNoriaki 郷土史家といっても有力な弟子を廻ってるかわからないですしね。といっても弟子の関係者が剣道関係者だと古流には興味なかったりしますしw
2012-05-03 10:58:38@inuchochin まあ市場町には残ってない…ということで。井後先生の弟子が北海道にいったりしているところを観るに、存外とそっちの方にあるかなーとか。徳島から北海道には随分と移民があったらしいので。
2012-05-03 11:00:13「相心流」は改築工事前に写真とったけど、現像する前に使い捨てカメラだったのが亡くした…勿体無いことしたな。まあ多分明度足りてないので写ってないと思うけど。そもそもからしてあの奉納額、三重の塔が移築する前にあったのか、移築後にできたのかも不明だ…話し好きの住職は亡くなられて久しい…
2012-05-03 11:02:52