「表現規制に反対すること」と「社会性の欠如」について

おおよそ、個人的なまとめです。
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wagu @wagu108

だから「誰が見ても傷つかない表現だけが許されるのだ」という主張は自分自身を否定する。

2012-05-13 23:22:59
wagu @wagu108

ただ、そこには非対称性の議論が絡む。マイノリティたる彼らに対する配慮、社会的な存在としての責任のあり方というのが問われるのだけれども、ゾーニングというのは一つの責任の取り方なのだろうと思う。

2012-05-13 23:24:24
wagu @wagu108

そういえば、例の親守歌が、子どもの自発的な感謝の気持ちから遊離しているのだとしたら、それは子どもの人格を無視して、自分の承認欲求のために子どもを利用するという、非道徳的な行為なのだろう。そういうのは、二次元でやればいいのだ。

2012-05-13 23:29:35
wagu @wagu108

表現規制に反対することが、「社会性が欠如している」と言われる場合、「実在する誰かが傷つくかもしれない」ことへの配慮の他に、「社会通念」「良識」「わいせつ感」の不足が指摘されている場合もあるように思う。

2012-05-15 23:43:49
wagu @wagu108

過激な性表現を目にして「これはさすがにどうか」という感性はぼくにもある。これは「世間一般の人」が見たら「こういう表現はまずい」と思うだろうなあ、と予想しているのだと思われる。が、これはもう少し超自我的なものかもしれない。内面化というやつですね。

2012-05-15 23:46:34
wagu @wagu108

つまり、過激な性表現などを目にして、「これはまずいだろう」と思うとき、内面化された「世間の目」で表現を見ているわけである。

2012-05-15 23:46:55
wagu @wagu108

ある人が裸で街を歩いるのを見かけた場合、それはまずいだろう、と思うのは内面化された「わいせつ感」が根拠になっているのだろう。

2012-05-15 23:47:25
wagu @wagu108

表現規制への反対が、社会性の欠如だという場合、世間的な感性を十分に内面化していないと指摘されていることもあると思う。これは保守的な感性からの指摘なんだろう。

2012-05-15 23:48:15
wagu @wagu108

例の都小Pの人によれば、ある小学生がマスクにサングラスをしてエロ漫画を買っていたと言うのである。しかし、この小学生は、世間的な感性を十分に内面化していたから、人目をはばかった購入方法に及んだわけですね。

2012-05-15 23:49:12
wagu @wagu108

この小学生の例では、世間的な感性を受け入れた上でなお、自分の欲望やら好奇心やらを満足させようと、つまり、「小学生がエロ漫画読むなんてとんでもない」という世の中において、自分自身であろうと、試みたのだ。

2012-05-15 23:49:40
wagu @wagu108

「小学生がエロ漫画読むなんてとんでもない」が世間の感性であるならば、彼がマスクをしてサングラスをかけたのは、世間的な感性に対する彼が彼自身の存在に対して行った「ゾーニング」であって、それは世間に対する敬意の表れと見ることができる。

2012-05-15 23:51:04
wagu @wagu108

しかし、一方では、彼にそこまでさせた世間の圧力ってなんなのだ、という問い方もできると思う。

2012-05-15 23:51:25
wagu @wagu108

つまり、表現規制への反対が、「社会通念」への配慮を欠いている、その意味で社会性が欠如しているという指摘があり得るが、その社会性とは本当にそれほど重要で常に正しいのか? そこは疑ってかかってみてもいい。

2012-05-15 23:52:01
wagu @wagu108

表現の問題では、社会通念に配慮した「ゾーニング」がされるべきだと思うけれども、その社会通念そのものが、常に疑問符を突きつけられうることは、考慮する必要がある。つまり世間に配慮して縮こまるばかりではなく、世間を変えていこうという方向もあるということだ。

2012-05-15 23:55:47