- korekorebox
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「孫策」定説どおりに行くと、194年に出仕し、その年の内に廬江・広陵を攻め落とし江東進出を始める。時間的にすげぇ速攻で攻め落としてるね。出仕して直ぐの若造にそんな軍を攻め落とす軍隊の指揮権が渡されるのかぁ・・・すげぇなぁ袁術って太っ腹だ・・・。
2012-05-11 14:13:44「孫策」194年に廬江・広陵を攻め落として太守にしてもらえないから袁術を恨んだ。ぽっと出の若造に軍隊指揮させて攻め落としたからって二十歳で郡太守ってどうよ?普通に考えて誰かの指揮下に入るでやろ。
2012-05-11 14:34:42だったら、袁術を恨んだのって孫策じゃなくて徐琨でしょう。てなことになると、陸康を攻めて恨まれたのは孫策じゃなくて徐琨に違いない。
2012-05-11 14:37:46【名士圧迫の犯人は朱治】呉郡の役所は朱治の縁者でいっぱいになった。つまり他の氏族は押さえつけられた。そんな朱治に孫権は不満を持った。恩人の朱治に意見が言えない孫権に代わって諸葛瑾が例え話でやんわりと朱治に指摘して穏便にすませた。
2012-05-11 14:42:26たぶん孫堅の死後にその軍団は孫賁の「これまで以上に袁術さんと仲良くしていこう」派と、呉景の「袁術とは距離を置いて揚州で独立しよう」派に分かれてたんじゃないかと思う。でも呉景は孫策引き抜かれたり、劉繇に離反されたりで手詰まりになり、興平二年に袁術に臣従して支援を仰いだ。そんな感じ。
2012-05-11 15:26:51@daradara3594 @HAMLABI3594 最近は、江表伝で牛渚を攻め取ったのが興平二年となってるけど、本当の江東進出は建安元年(196)からじゃないのかなと疑い始めてます。
2012-05-11 16:29:23なんとなく「本当は孫策って最後まで棟梁になれてなかったんじゃない?」と言う考えが思い浮かぶ。最初から最後まで徐琨が棟梁で、徐琨死後に呉景・朱治・孫賁で分裂しそうだったのを張昭と周瑜が孫権を担ぎ出した。(これで内地豪族と外地名士の対立発生)
2012-05-11 16:52:42@HAMLABI3594 @daradara3594 (劉繇は袁術の任命)仮説に(棟梁は徐琨)仮説を重ねてるだけなので、トンデモ説にしかなり得ないですw
2012-05-11 16:57:39【徐琨死後、孫権を担ぎ出した理由】多分、棟梁だった徐琨の嫁や(徐氏)の意向も大きかったと思う。(徐夫人が孫権の妻となり、先に妻となっていた謝夫人より目上とされる)
2012-05-11 17:16:50【徐琨死後、孫権を担ぎ出した理由】多分、棟梁だった徐琨の嫁や(徐氏)の意向も大きかったと思う。(徐夫人が孫権の妻となり、先に妻となっていた謝夫人より目上とされる)
2012-05-11 17:16:50【徐琨死後、孫権を担ぎ出した理由】多分、棟梁だった徐琨の嫁や(徐氏)の意向も大きかったと思う。(徐夫人が孫権の妻となり、先に妻となっていた謝夫人より目上とされる)
2012-05-11 17:16:50@korekorebox @HAMLABI3594 この辺りについて一番詳しい史料が江表伝というのがまた話をややこしくしてますね。どこまで信じてよいものか。ただ呉録が載せる孫策の上表では興平二年の十二月の時点で既に曲阿に入城しているので、自分は江表伝の説をとりたいです。
2012-05-11 18:14:25そう考えようとすると、江表伝と呉録の記述が邪魔ーw でもさ、上表文章って都に送られてるわけでしょ?なんで呉録なんかに載るんだわいな?おかしくね?
2012-05-11 23:07:24@daradara3594 @HAMLABI3594 まーこれは、注の異説をどう扱うかという問題なんで自分の説は、トンデモ仮説といわれてもしょうがないものですw 「疑ってみてみると、こうも考えられたよ!」ってなくらいですw
2012-05-11 23:17:59