若松征男(1994)「公害・環境報道の担い手たち」

 1970年代の科学報道について説明している若松征男氏による「公害・環境報道の担い手たち」という論説の引用です。全国紙の科学報道の「七〇年代を特徴づけるのは公害・環境報道」と指摘し、そうした「公害報道は社会部記者の独壇場だった」と論じています。  ここのところ新聞報道を読み返すことが多かったので、若松氏のこの論説もそれらの読解の参考になると思い、まとめました。中山茂・吉岡斉編『戦後科学技術の社会史』(1994年、朝日新聞社)に入っています。ほかにも放射能や原発関連で興味深い論説が掲載されていますので、興味をもった方はお買い求めください。 中山茂・吉岡斉編『戦後科学技術の社会史』 Amazon:http://amzn.to/JLJlKw
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dabitur @dabitur

[book] たまたま古本屋で見つけたので読んだ. 笹本征男「原爆調査」若松征男「公害・環境報道の担い手たち」など放射能や公害の問題にもふれていたのが発見. / 中山茂・吉岡斉編(1994)『戦後科学技術の社会史』  http://t.co/GzoY8PG0

2012-06-03 00:53:21
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[paper] 若松征男「公害・環境報道の担い手たち」in: 中山茂・吉岡斉編『戦後科学技術の社会史』(1994年、朝日新聞社)

2012-06-04 02:15:16
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「新聞の科学報道は、一九五〇年代末に科学部が作られて本格化した。そして、六九年七月二〇日、アポロ11号の月上陸で頂点に達する。/ケープケネディに送られた日本報道陣は、外人記者団のうちでもっとも多い一二〇人であった」(若松征男p.227)

2012-06-04 02:16:16
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「科学報道を科学が何らかの形でかかわるものと捉えると、宇宙(ロケット、人工衛星)、原子力、医療・保健、基礎科学、ハイテクなどの分野があるが、七〇年代を特徴づけるのは公害・環境報道である」(若松征男(1994:227))

2012-06-04 02:17:00
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水俣病をはじめとする一九五〇年代末から六〇年代の公害報道は、地方紙による掘り起こしが大きい。*全国紙は後手に回ったという印象を否めない。水俣病(『熊本日日』)にせよ、イタイイタイ病(『北日本』)にせよ、その報道は地方紙に始まっている」(若松征男(1994:227))

2012-06-04 02:17:44
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「六九年三月の『新聞研究』の座談会『科学報道を総点検する』で医事評論家の水野肇は新聞の公害報道について『阿賀野川にしても、イタイイタイ病にしても、農業の問題にしても、一連のあの問題は、わかっているが取り上げないという感じだった』と批判している」(若松征男(1994:228))

2012-06-04 02:18:39
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「また『科学朝日』のコラム『科学と報道』で柴田鉄治は、水俣病報道の二つの『痛恨事』を、次のように述べている」(若松征男(1994:228))

2012-06-04 02:20:29
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「『一つは水俣病のもつ重大な意味あいがなかなかわからず、長い間、ローカルニュースにとどめてしまったこと、もう一点は、病因の確定を引き延ばそうという動きを見破れず、結果的に、報道がそれにのせられてしまったことである』(八九年一一月号)」(若松征男(1994:228))

2012-06-04 02:21:20
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一九七〇年五月、車の排気ガスの滞留で問題になっていた東京都新宿区の牛込柳町で、慢性鉛中毒患者の発生が確認された。七月には東京都杉並区で光化学スモッグが現れ、大都市での大気汚染の進行を人々の目に明らかにした」(若松征男(1994:228))

2012-06-04 02:34:32
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この『鉛公害』は、七〇年代初めに明らかになった多様な公害の幕開けとなる象徴的事件であった。それまでローカルな問題と捉えられていた公害が、全国的な問題として現れ、全国的報道が一気に加速されたとみることができよう」(若松征男(1994:228))

2012-06-04 02:35:32
dabitur @dabitur

こうしてこの年、黒部のカドミウム汚染、富士市田子の浦のヘドロ問題、多摩川のシアン公害、農薬汚染、廃棄物の不法投棄など、多様な公害が全国的に明らかにされたまた同年一一月に召集された「公害臨時国会」では公害関係一四法が成立、環境庁の設置も決まった」(若松征男(1994:228))

2012-06-04 02:36:46
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公害・環境報道の主要な担い手となったのは、新聞・通信社内の機構でいうと、社会部・科学部で、各社とも公害取材班などを作っている。たとえば毎日新聞は社会部の遊軍記者を中心に公害班を編成している。また産経新聞は『全社総公害記者』の方針で対応した」(若松征男(1994:229))

2012-06-04 02:37:28
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公害報道は社会部記者の独壇場だったといってよい。そこには被害者・加害者がおり、事件の現場があった。そこは彼らにとって刑事・司法問題の場であった。しかし、「科学」の言葉に振り回されながらの取材に取り組まねばならなかった」(若松征男(1994:229))

2012-06-04 02:38:13
dabitur @dabitur

記者たちは住民運動を掘り起こし、各地から次々と公害・環境破壊の実情を報告していった。『新聞研究』は一九七〇年七月号で「公害報道の視点と方法」を特集し、以後、四三回にわたって七四年三月まで二ページのコラム「公害報道」を連載する」(若松征男(1994:229))

2012-06-04 02:39:17
dabitur @dabitur

七三年に石油危機が起こると『環境か開発か』の議論が起こり、公害・環境破壊キャンペーンは勢いを失う」(若松征男(1994:229))

2012-06-04 02:40:10
dabitur @dabitur

ある科学記者は、この環境か開発(またはエネルギー)かの対立は、新聞社内の社会部と経済・産業部の対立にも反映しているという。環境問題が原発問題と重なり合ってくるのは七〇年代末以降である」(若松征男(1994:229))

2012-06-04 02:40:36