2012.06.16 マスコミ倫理懇談会 第25回公開シンポジウム「大震災から500日 被災地の記者が考えたマスコミの役割」@日本プレスセンターホール
東北放送 佐々木智之氏。「震災当日は揺れている途中にラジオの報道ブースに飛び込み、震度や大津波警報を伝えた。テレビも揺れが収まってからすぐに災害放送を開始した。テレビは3/14までしか放送を続ける燃料が無く、追加燃料があと半日遅かったら放送が止まっていた。」
2012-06-16 14:15:07佐々木「県内に設置した情報カメラのうち、東京のスタジオで見たのが仙台空港に押し寄せる津波の映像。仙台空港にここまでの津波が来るということは、三陸がどのような恐ろしい状況になっているかは想像がついた。」
2012-06-16 14:16:36東北放送 佐々木「震災からは、最新情報を伝えることに徹していた。日々の情報を伝えることも大事だが、あの日あったことを記録に留めなくていけないと思った。翌月から1時間の番組「震災の記録」を毎月放送した。あの日何があったのかということと、最新の課題を伝えた。」
2012-06-16 14:19:01佐々木「今回の震災は非常に映像の記録が残った。しかし映像の衝撃が強すぎて、言葉で何を伝えられたかと自問することがある。うまく言葉が出ず、決まりきった言葉でしか伝えられなかったという反省がある。伝えるための言葉をもっと研ぎ澄まさなければ、と感じた。」
2012-06-16 14:23:17佐々木「被災地に行っていきなりカメラを回すのでなく、カメラを置いて話を聞くといろんなことを話してくれた。見えにくい被災地の状況を伝えるためには、私たちはとにかく歩いて取材をしなければいけないなと思った。」
2012-06-16 14:26:55佐々木「被災地を歩いて収録した取材テープは数千本。しかしその情報を100%生かせるかというと、伝えられる情報は限られる。いろんな情報を収集して発信することの難しさ。」
2012-06-16 14:28:10佐々木「「がんばろう報道」からの脱却。伝える側が「がんばろう」と言ってはいけないと思う。課題や事実をきちんと積み重ねて、地域の状況を伝えていくことが大事。情報を深掘りするために、対象はある程度絞っていかなくてはいけない。」
2012-06-16 14:31:55佐々木「被災者に寄り添う姿勢。つねに被災者の側にたって報道する。膨大な情報が行政からも入ってくるが、それを追っているだけでは現状は伝わらない。被災地を歩いて、被災者の人の話を聞かなければいけない」
2012-06-16 14:33:12佐々木「被災地から全国にどう伝えるか。被災地を回る記者が心配に思っていることは「全国ネットでは取り上げられない」ということ。あるキー局の人に「今回の震災は世界的なニュースなので、その視点で見なければ全国には出ない」と言われた。私はそうは思わない。より現実を出していく。」
2012-06-16 14:36:30佐々木「防災減災という意味で、今回の震災で何がおこったかということはこれからも伝え続けて行かなければいけない」
2012-06-16 14:37:40IBC岩手放送 神山浩樹氏「震災の瞬間は社屋2Fのラジオスタジオで生放送中。盛岡の震度は6強。人間が恐怖を感じるという震度4以上の揺れは2分40秒続いた。揺れが収まってすぐ報道スタジオに切り替わったのち、カメラマンとともにすぐ沿岸部で出発した。」
2012-06-16 14:44:58神山「取材中に本社から指示。「陸前高田へ行ってくれ。陸前高田だけ情報が入ってこない。これは大変なことが起こっている」 避難してきた人は口々に「街が無くなった」と語った。夜が明けて見た陸前高田の街は、確かに無くなっていた。」
2012-06-16 14:46:26神山「声にならない声、メディアには乗らないようなものを伝えたいと意識している。」(DVD上映。被災後の土地で活動を復活したゲートボールクラブ。「これまでは芝だったけどいまは段々の土でしょ。でも慣れれば楽しいです」と、メンバーの女性。)
2012-06-16 14:50:49被災者の憩いの広場として土地を提供した男性。「一番最初に「ありがとう」と言われたときには涙が出てきました。」
2012-06-16 14:51:50「荒れた海岸に広場を整備したボランティア。花を贈った遠くの子どもたち。土地を提供した地主。「仮設に閉じこもっていてもやることがないから」と、かつての仲間たちとふたたび広場に集まる。寒い北国に花が咲く。 小さな日常の積み重ねが、復興につながっていくんですね。」
2012-06-16 14:55:07津波で消防団員の息子を失った男性。「海に対する気持ちは変わらない。この海が息子を育ててくれたんだから。」
2012-06-16 14:55:59「息子は人助けして亡くなったんだもん。だからなんとも思わないな。あっというまの一年だったけど、それだけだな。」と語る男性。「なんとも思わないさ。なんとも・・・」と遺影の前で語りながら涙をぼろぼろこぼす。
2012-06-16 14:57:17「外からやってきた人は「被災者から元気をもらった」という。一見そう見えると思います。でもそれは訪れたお客さんに対しての顔という一面もあります。家に帰れば涙を流しているんです。」
2012-06-16 14:58:54東北放送 佐々木「記者も休みになれば現地へ入り、カメラクルーは携えず、ひとりひとりと話し、地域の空気を感じ取って取材に反映させていくことが、寄り添っていくことなのではないかと考える」
2012-06-16 15:07:24岩手放送 神山「より多くの声を放送に乗せる。それだけ。内陸にも全被災者の10%にあたる人々が住んでいて、これからの暮らしがどうなっていくのか悩んでいる。そういう人達の声を取り上げることも、寄り添うことにつながるのではないかと考えている。」
2012-06-16 15:10:40岩手日報 磯崎「被災者の人と同じ気持ちになることは大事なのだけど、それだけではいけないとも思う。私たちは、明日の暮らしがもっと良くなるために外へ伝える。日々の生活をそのまま伝えるのではなく、どうしていけばいいのかを考えることが寄り添うことなのではないかと考えます。」
2012-06-16 15:11:03岩手日報 磯崎「仮設住宅の中で交流のない人の存在。神戸の復興住宅を訪問しても感じた。コミュニティの喪失がなるべく進まないようにしたい。なるべく被災地コミュニティを見ていこうという企画も行なっている。コミュニティの中にいる人が見えなくならないような仕組みづくり。」
2012-06-16 15:17:17岩手放送 神山「津波で湾口防波堤が無くなったことで海の水が綺麗になり、養殖していたワカメの発育が良くなったケースも。安全を取るか、生活を取るか。」
2012-06-16 15:21:04岩手放送 神山「復興宣言を出した奥尻島を取材したときのこと。ハード面では街はたしかに綺麗になっていた。しかし、過疎は止まっていなかった。須田女川町長の講演にもあった通り、次の世代を見据えて街を作って行かなければいけない。」
2012-06-16 15:25:59