笠井潔氏による「デモ」に関する連続ツイートPart1

まとめました。Part2はこちら→ http://togetter.com/li/337201
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笠井潔 @kiyoshikasai

だから、デモという「症状」は、国家誕生の現場を追体験し、再体験するまで原理的には「治癒」されようがない。あらゆるデモは、必然的に例外状態をはらむ。先週の金曜に、はじめてデモに参加した人たちにとって、それは「日常」から逸脱する「例外」的な経験だったろう。

2012-07-02 04:36:19
笠井潔 @kiyoshikasai

こうした無数の「例外経験」が政治的に構成され、膨大に集積されたとき総蜂起の瞬間が到来し、新たな政治秩序が樹立される。いや、それ以外に、国家秩序が真に更新されうる可能性はない。この意味で、デモは、もっとも深い意味で「政治」を変えうる。たとえ、そのつど、個々の政策を変えられなくても。

2012-07-02 04:43:53
笠井潔 @kiyoshikasai

前にも書いたことがあるが、「蜂起」は「来るべき」ものではない。どこにでも「いま、ここにある」。本人にとっては切実であり、また不可避でもある無数の「逸脱」行動が、それ自体として小さな蜂起だ。授業中に坐っていられなくて、教室を歩きまわるADHD児童は、学校権力に一人で蜂起している。

2012-07-02 04:59:38
笠井潔 @kiyoshikasai

こうした「いま、ここにある」無数の蜂起という社会的土台に、どこまで政治的蜂起としてのデモが深く根を下ろしているか。既成の国家秩序に本源的に対抗するデモのデモ性は、この点で試されると思う。

2012-07-02 05:03:50
笠井潔 @kiyoshikasai

60年安保のとき、デモの社会的基礎は国民の戦争体験だった。68年では「ゆたかな社会」にたいする不快感と、そこから生じた無数の個人的蜂起(たとえば「少年ライフル魔事件」のような)が政治闘争の基盤にあった。今回はどうなのだろう。

2012-07-02 05:07:42
笠井潔 @kiyoshikasai

わが子の健康のため、放射能汚染や新たな原発事故を憂慮する若い母親たちの生活実感が、デモの社会的基盤だとすると、いささか弱いように感じる。何ベクレルの食物だろうと、安ければ喰わざるをえない貧困層は、そうした反原発を「特権的」だと反撥する。そうした反「反原発」の声はよく耳にする。

2012-07-02 05:12:32
笠井潔 @kiyoshikasai

最初期のマルクスは、プロレタリアートを「世界の解体の表現」であるような人々と定義した。これは、マルクスがもっとも正しかった時期の発言で、その後は思想的後退の一途を辿り、最後にはプロレタリアートを産業労働者階級に固定化してしまう。

2012-07-02 05:17:19
笠井潔 @kiyoshikasai

世界の全的な更新としての「革命」を本気で求めるのは、この世界で自分は全的に失われていると思わざるをえない人々だ。現代日本では、いったい誰が「プロレタリアート」なのだろう。

2012-07-02 05:22:20
笠井潔 @kiyoshikasai

教室でのいじめの犠牲者、結果としての登校拒否児童や高校中退者、その多くが行き着く低賃金の不安定雇用者、そこにさえ行き着けない引きこもり、などなど。現代日本という「世界」が、自称するように自足的で自己完結的なものでなく、すでに底が抜けている事態を、否応なく人格的示す存在。

2012-07-02 05:24:31
笠井潔 @kiyoshikasai

これが現代日本の「プロレタリアート」だ。このようなプロレタリアートの存在の底にまで根を下ろさなければ、あるいはプロレタリアートの政治的表現として反原発が戦われるのでなければ、今回の反原発デモも、それ自体が例外状態であるデモとしての潜勢力は発揮しえないだろう。

2012-07-02 05:27:49
笠井潔 @kiyoshikasai

サウンドデモ以来の、レイブのノリでデモに来ている若者はどうなのだろう。活性化した現代日本のプロレタリアートなのか、加藤智大のような生活をしているロスジェネ多数派とは違うのか。違うとすれば、どう違うのか。現代日本の大衆蜂起の行方を予測するには、この辺が核心問題のような気がする。

2012-07-02 05:38:08