「敗戦」に向き合う――「総懺悔」論と「だまされた」論
[paper] 読. / 吉見義明(1992)「占領期日本の民衆意識――戦争責任論をめぐって」 http://t.co/uBaOfEj9
2012-07-06 01:19:46「1945年8月、敗戦に際しての「内閣告諭」(14日付け)は『既往に拘泥して同胞相猜し内争』することあるべからずとのべて戦争責任追及の動きを事前に阻止しようとしていたが、これに次いで政府の側から出されたものが総餓悔論だった」(吉見(1992:74))
2012-07-06 01:21:55「これは東久邇宮首相が1945年8月28日に提唱して一気に広まったものだが、その内容は軍・官・民の全国民が天皇に対して『戦敗』を総餓悔するというものであった(『朝日新聞』『読売報知』各8月30日号)」(吉見(1992:74))
2012-07-06 01:22:27「つまりここで問題にされているのは、敗戦責任のみであり、また指導者と民衆の責任は事実上同じものとされ、天皇のみ一切責任がないことになっていた」(吉見(1992:74))
2012-07-06 01:22:46「このような総餓悔論の評判は非常に悪かった。*〔くわえて、〕この議論は民衆の戦争責任意識を混迷させる罠のような効果をもったことも否定できない。たとえば、一億総餓悔論に反発するある青年労働者は次のようにのぺている」(吉見義明(1992:74))
2012-07-06 01:24:01「東京政府の偉い方はうそぶいた。『一億総餓悔』、皆が悪いんだ、何故ならば戦争に賛成した代議士は君達が選挙したのだから。労働者はどう考えても自分が戦争を起した責任者とは思えなかった」(吉見義明(1992:74))
2012-07-06 01:26:40「問題が提出されたが、納得出来る答は提出されなかった。此処に我々の苦悩があり、新しき出発点が発見せられない理由があるのだ。」(一男「青年部の新しき出発に際して」、唐津砿業所労組青年部編『炭塵』1947年12月号)(吉見義明(1992:74))
2012-07-06 01:27:22「岩手県和賀郡岩崎村にある東北電気製鉄和賀川工場の設計係、松井昂は、日本がおこした戦争が侵略戦争であったという事実や軍部の責任を認めながらも、次のようにのべている」(吉見義明(1992:74))
2012-07-06 01:31:26『之〔戦争〕を国民が何故未然に阻止出来なかった〔か〕。何故軍に政治の大権を委せて黙っていたのか顧みよ……誰人にも敗戦の責任があるのである。吾々はこの際責任追及を論ずることを慎み、自身の不肖を意識することが必要であろう』(*1946年5月)。(吉見義明(1992:74f))
2012-07-06 01:35:49『敗戦の責任は国民の総繊悔でと唱え乍ら、これを一部の旧指導者にのみ追求して悪しざまに糾弾し、自らは恰るで戦争傍観者ででもあったかの様に反省の色さえも見せぬ一般の世相。*弥次馬式傍観の態度ではこの危局〔=敗戦からの立ち直り〕がどうして乗り切れよう』(吉見義明(1992:75))
2012-07-06 01:39:24「これに対し、総餓悔論に対するもっとも一般的な反発が『だまされた』という意識であったことはよく知られている」(吉見義明(1992:76))
2012-07-06 01:40:43「もっとも一般的な反応は、かつてはだまされたが今度はだまされないぞ、という受け止め方であった。たとえば、北海道電産の一幹部は次のようにのべている」(吉見義明(1992:76))
2012-07-06 01:45:01「『〔敗戦後、〕日本再建のために実際にかかる生活費の半分程度の賃金で苦しかろうが我慢をしてくれ、と政府や資本家は言っています。〔しかし、〕戦争中勝つために、と言って耐乏生活を強いられました。東条が必ず勝つと言った戦争は負けました』」(吉見義明(1992:76))
2012-07-06 01:45:10「『資本家と特権階級の利益のための無謀な侵略戦争だったことを今になって東京裁判所[ママ]などで知って、全くダマされて居たことをさとったわけです』」(*『HOKKAI DENSAN』1948年9月20日号)(吉見義明(1992:76))
2012-07-06 01:45:49「別のタイプとして長野県小県郡長村青年会女子青年団のある女性の場合を見ると、彼女は次のようにのべている」(吉見義明(1992:77))
2012-07-06 01:47:07「敗戦後の新聞紙は筆を揃えて、軍部の罪であると書きました。……だました政府の悪るい事はもちろんですが、しかしだまされた私達国民には罪はないだろうか。其の愚かさ、それもまた一つの罪であると私は思います」(吉見義明(1992:77))
2012-07-06 01:47:50「『つきつめて行けば、私達は此日本の国に生れた自分の運命を悲しみあきらめるよりほか道はないと思います』」(山水「善悪を知る」、同青年団編『四阿』一九四七年6月20日号)(吉見義明(1992:77))
2012-07-06 01:48:37「福岡県宗像郡赤間町青年団の一青年は、敗戦責任をだれもとらなかったことをいきどおりながらも、他人に責任を転化していては日本は救われないとして、次のようにのぺている」(吉見義明(1992:80))
2012-07-06 01:52:35「『これだけの大戦争が行われ、これだけの大悲劇が起りながら、自ら国民に対して申訳が無かったと言って呉るものが一人も無かったことが、国民を棄鉢的にしなかったと誰が言い得るだろうか。人を責めることにのみ急で自ら努めることを忘れたかに見える』」(吉見義明(1992:80))
2012-07-06 01:53:19「『然し、誰が戦争を始め、誰のためにこんなに辛い目に遭っているかは別として、この環境から少しでも楽しい社会を作り出すのは、お互がやる他には誰もやってくれるものの居ないことは確かである。然るに、この簡単なことが日本国民には分っているだろうか』」(吉見義明(1992:80))
2012-07-06 01:54:03「皆が責任を転化して第三者的に、顧みて他を語っている。こんな惨めな目に遭ったんだもの無理もないが、そう言っていたのではこの悪循環は何時までも続いて行くのだ」(吉見義明(1992:80))
2012-07-06 01:54:55「『他の事は言うまい。俺が日本を救うのだ。俺が民族を救うのだと国民一人々々が責任を取り戻しさえすれば、日本の復興は易々たるものとなる。これこそ民主日本の発足なのだ』(K・S「責任の喪失」、同青年団編『青年あかま』一九四八年八月三一日号)」(吉見義明(1992:80))
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