国旗に礼をするのに抵抗を感じる人と、欠礼を見て不快に感じる人がいる事とその対策についてのやり取り

『「村長が式典で国旗に一礼しないのは何故か」長野県中川村での村長答弁』関係のやり取りの続き。@BetsuNgt@nyngt)氏とのやり取りの部分をまとめ★4から抽出しました。 ●追加しました。更に追加しました。また更に追加しました。 ●曽我村長の新たな記事「『村議会での国旗・国歌についての答弁に』匿名希望の方からの質問」http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10117&i=11154 に関するツイート及び、当該記事の抜粋をまとめ末尾に追加しました。 続きを読む
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●以下は曽我村長のHPの新たな記事「『村議会での国旗・国歌についての答弁に』匿名希望の方からの質問」についてのツイート


そが逸郎『「苦」をつくらない』8月出版・高文研 サピエンスを超克するブッダの教え @itrsoga

中川村議会での「村長が式典で国旗に一礼しないのは何故か」の質問への答弁を村HPに掲出し、ご質問を頂いていた。ようやく返事を書けた。http://t.co/6lSSNpWZ

2012-07-07 20:59:07
ひじじきき @hijijikiki

「Q:村長は、日の丸に敬意を抱いているか否か‥A:この質問は微妙‥国民主権が本当であるのだから、国は一人称、自分たちの側としてあるべき‥日本に対して「敬意」ではなく「誇り」を感じられるようになりたい」『村議会での国旗・国歌について答弁Q&Ahttp://t.co/P1YGQ0er

2012-07-07 22:16:55
ひじじきき @hijijikiki

「Q:自治体の首長が、国旗に礼をせず‥日本人へ不敬を働いていることだ‥A:それを不敬だと決めつけるのは短絡的であると繰り返し申し上げました。また、ここで「自治体の首長」を持ち出して‥(続く)」『村議会での国旗・国歌について答弁』へのQ&A http://t.co/P1YGQ0er

2012-07-07 22:23:51
ひじじきき @hijijikiki

続1)「‥を持ち出してこられたのは、まさしく「分を守る」こと、自分で深く考えて態度を決めるのではなく、唯々諾々と空気に従い、与えられた役割を演じることを要求しておられるのでしょうか。」『村議会での国旗・国歌について答弁』へのQ&A http://t.co/P1YGQ0er

2012-07-07 22:25:33
ひじじきき @hijijikiki

続2)「あるいは、私の行動それ自体よりも、##さんはじめとする「一部の日本人」が、不敬だ、失敬だと感じる、ということがポイントなのでしょうか。」『村議会での国旗・国歌について答弁』へのQ&A http://t.co/P1YGQ0er

2012-07-07 22:26:37
ひじじきき @hijijikiki

続3)「しかし、それでは、「俺が気に入らないから、改めろ」と言っているのと結局は同じことになります。 この論理から思い出したのは、靖国神社合祀取消訴訟です。」『村議会での国旗・国歌について答弁』へのQ&A http://t.co/P1YGQ0er

2012-07-07 22:27:57

「広報なかがわ」の「村長からのメッセージ」から、以下の頁の後半部分を抜粋:

『村議会での国旗・国歌についての答弁に』匿名希望の方からの質問

http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10117&i=11154

匿名希望の方から、「村長からのメッセージ」掲載の村議会での国旗・国歌についての答弁に関連して、ご質問を頂いている。‥

(....)

 背景にある差異の説明が長くなりました。以上をご理解頂いたという前提で、頂戴したご質問に答えたいと存じます。

(1)村長は、国旗や国歌などが国家を象徴すると認めるか否か。
 認めます。それが、国旗、国歌という言葉の意味です。

(2)村長は、日の丸を国旗として認めるか否か、君が代を国歌として認めるか否か。
 国旗国歌法でそのように定められており、認めます。

(3)村長は、日の丸に敬意を抱いているか否か、君が代に敬意を抱いているか否か。
 この質問は微妙です。Yes、No では答えられません。
 まず、「敬意」という感情は、一人称ではなく二人称・三人称に対して抱くものではないでしょうか。##さんがここで「敬意」という言葉を使われたということは、##さんにとって、日本という国と自分との間にいくばくかの距離があって、おそらくは日本国を自分の上に君臨する存在として感じておられる事の反映ではないかと想像します。
 私は、国民主権が本当であるのだから、国は一人称、自分たちの側として感じられるものであるべきだと思います。ですので、日本に対して「敬意」ではなく「誇り」を感じられるようになりたいと思います。
 で、(1)で確認したように、国旗・国歌は、国を象徴するものです。従って、国旗・国歌に誇りを抱くかどうかは、国に誇りを抱くかどうかが反映されます。では、日本の現状が誇りに値するかというと、とてもそうは思えません。それどころか、現状には恥ずかしいとさえ感じています。力はあるのにそれを正しく使う努力をしていない。歯がゆい思いです。日本を世界の人々(衆生)のために働く国に、世界の未来を良くする国にすることができた暁には、胸を張って日本を誇ることができるでしょうし、国旗、国歌も誇らしく感じることができるでしょう。そうなりたいと願います。
 ちなみに、国歌「君が代」について若干個人的な思いを付け加えるなら、##さんも仰るとおり、国民が日本国の主権者なのですから、君ではなく民を主題とし、「日本国民は、みんなでより良い世界の未来のため、世界の人々のために努力しよう、そして日本を誇れる国にしよう」という内容であれば、よりストレートで分かりやすいのではないかと感じます。

 次に、八つの質問について。

(1)私は、国旗へ礼をしないこと、国歌を歌わないことは、それらが象徴する国家への不敬であると思うが、異論はあるか。
 必ずしもそうは思いません。誇りにできる国を持ちたいのにそうでない現状への不満の表明ということもあり得ます。国の現状などつべこべ言わずともかく礼をしろ、という押しつけへの抵抗ということもあり得ます。その他、人によっていろいろな思い、考えが背景にあるかもしれません。

(2)私は、日本国の主権者が国民であると思うが、異論はあるか。
 全く異論ございません。そうあるべきだと思います。只、上に書いたとおり、現状はそうでない事が多々あるので、本来のあるべき姿に正していかねばならないと考えます。

(3)私は、国民の中には、国旗や国歌を嫌っている人と、国旗や国歌に何の感情も抱いていない人と、国旗や国歌に敬意を抱いている人と、他の諸々の人がいると思うが、異論はあるか。
 当然さまざまな思いの方々がおられると思います。

(4)私は、国旗へ礼をしないこと、国歌を歌わないことは、国家の主権者である国民への不敬であり、一人の国民である私は残念に感じるが、国旗や国歌を敬う人の中には同じような考えの人がいると予測する。そのような人が中川村村内にもいると思うが、異論はあるか。
 機械的単純に不敬とひとくくりにできないことは(1)で述べました。
 中川村には五千人を超える人がいるので、##さんと似た考えの方もおられるでしょうし、異なる考えの方もおられるだろうと思います。同様に、私と似た考えの方も、異なる考えの方もおられるでしょう。

(5)私は、国旗へ礼をすること、国歌を歌うことは、国旗や国歌に敬意を抱いている人への敬意を表すことではあり得るが、国旗や国歌を嫌っている人への不敬にはなり得ない、敬意というものはそのようなものだから美しく、和を生み出す尊いものであると思うが、異論はあるか。
 これは何を仰りたいのか、よく判りません。「和」が大切だから、「和」のために国旗・国歌にともかく礼を尽くせ、と仰っているのでしょうか。
 聖徳太子がどんな方だったか存じ上げませんが、私がこれまでに接した中で、「和」をことさら強調した方々は、部下から多様な意見が出されるのを嫌がる、正直に行って尊敬しにくい上司だったように思います。耳障りの良さとは裏腹に、「和」とは、「空気を読んでそれに同調せよ」と要求することです。さらに言えば「分を守る」ことと一体で、身分や階級によって人を従わせようとします。

 「…夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。
 このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。…」(国体の本義)

 「分」などとは関係なく、何事であれ誰もが思うところを表明できる。そして批判しあい、学びあう。それによって考えは深まり、間違いは正され、よりよい未来が実現されていく。国旗・国歌についても同じです。様々な意見、様々な態度が許容されることが、まず大切です。

(6)私は、自治体の首長が、国旗に礼をしたり、国歌を歌うことには問題がないと思うが、異論はあるか。
 それぞれの意見・態度を表明することに問題があろう筈はありません。

(7)私は、自治体の首長が、国旗に礼をせず、国歌を歌わないのは、いたずらに一部の日本人へ不敬を働いていることだと思うが、異論はあるか。
 それを不敬だと決めつけるのは短絡的であると繰り返し申し上げました。
 また、ここで「自治体の首長」を持ち出してこられたのは、まさしく「分を守る」こと、自分で深く考えて態度を決めるのではなく、唯々諾々と空気に従い、与えられた役割を演じることを要求しておられるのでしょうか。
 あるいは、私の行動それ自体よりも、##さんはじめとする「一部の日本人」が、不敬だ、失敬だと感じる、ということがポイントなのでしょうか。しかし、それでは、「俺が気に入らないから、改めろ」と言っているのと結局は同じことになります。
 この論理から思い出したのは、靖国神社合祀取消訴訟です。家族が靖国神社に勝手に合祀されていることは耐えられない精神的苦痛であるから、合祀を取り消して欲しい、との訴えです。しかし、裁判所は、靖国神社の信教の自由に関わることとして棄却しました。この問題を##さんの論理から考えれば、この訴えは正当だということになります。私も、この家族はすべての合祀を止めろと言っている訳ではなく、自分の家族の解放だけを願っているのですから、叶えるべきだと思います。しかし、もし「気に入らないから止めろ」の論理が通れば、すべての合祀を止めろ、という主張も可能になり、それは無理な要求だと思います。

(8)私は、例えば反原発運動を支持するが、反原発の運動と国旗国歌の問題を声高に混同されると、反原発の運動に参加することへ抵抗を感じてしまう。同じような気持ちの、反原発で国旗や国歌に敬意を抱いている人が中川村村内にもいると思うが、異論はあるか。
 繰り返しになりますが、中川村には五千人を超える人が住んでおります。従って、様々な考えがあるだろうというご指摘に異論はありません。
 ただ、##さんがこれを持ち出される意図はなんでしょうか。抵抗を感じる人がいるから発言を控えよ、と仰りたいのでしょうか。だとすると、やはり「俺の気に入らないことはするな」の論理です。
 あるいは、脱原発運動を拡大するための戦術的アドバイスを頂いたのでしょうか。であれば恐縮ではありますが、私にとっては、脱原発も国旗国歌も掘り下げていけば国についての考察として連結してきます。賛同者の数を増やすことより、意見表明しあい、考えを深め合うことのほうが重要だと考えますので、戦術的自粛はせず、今後も考えを衆目に晒し、村の内外から多くの方のご批判、ご教授を頂きたいと思います。

 ありがとうございました。
草々

####様
2012年七夕                     曽我逸郎

 


「広報なかがわ」の「村長からのメッセージ」から引用:

村議会6月定例会 「国旗と国歌について村長の認識は」との一般質問を頂きました。

http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10685&i=11049

 中川村議会6月定例会で、高橋昭夫議員から、「国旗と国歌について村長の認識は」という一般質問を頂いた。
 一問一答方式のため、受け答えはやりとりの流れに応じた“アドリブ”になっていき、正確に再現することは難しいので、頂いた通告と私の答弁原稿を以下に掲載する。

<一般質問通告>
 小・中学校の入学式や、卒業式の席で、村長は(壇上に上る際、降りる際に)国旗に礼をされていないように思います。このことについて村長のお考えをお聞きしたい。

<答弁原稿>
 たいへんありがたい質問を頂戴しました。ご質問の件については、村民の皆さん方の中にも、いろいろ想像して様々に解釈しておられる方がおられるかもしれません。説明するよい機会を与えていただきました。感謝申し上げます。

 私は、日本を誇りにできる国、自慢できる国にしたいと熱望しています。日本人だけではなく、世界中の人々から尊敬され、愛される国になって欲しい。
 それはどのような国かというと、国民を大切にし、日本と外国の自然や文化を大切にし、外国の人々に対しても、貧困や搾取や抑圧や戦争や災害や病気などで苦しまないで済むように、できる限りの努力をする国です。海外の紛争・戦争に関しても、積極的に仲立ちをして、平和の維持・構築のために働く。災害への支援にも取り組む。
 たとえて言えば、日の丸が、赤十字や赤新月とならぶ、赤日輪とでもいうようなイメージになれば、と思います。
 世界中の人々から敬愛され信頼される国となることが、安全保障にも繋がります。

 これは、私一人の個人的見解ではなく、既に55年以上も前から、日本国憲法の前文に明確に謳われています。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 そして、憲法前文は、次のような言葉で締めくくられています。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

 しかし、現状はまったく程遠いと言わざるを得ません。日本国は、名誉にかけて達成すると誓った理想と目的を、本気で目指したことが、一度でもあったのでしょうか。

 東京電力福島第一原発による災害では、国土も、世界に繋がる海も汚染させました。たくさんの子ども達が、かつての基準なら考えられない高汚染地域に放置されています。そしてまた、安全基準も確立しないまま、目先の経済を優先して、大飯原発の再稼動を急いでいます。放射性廃棄物をモンゴルに捨てようとしたり、原発の海外輸出まで模索しています。
 明治になって日本に組み入れられた琉球は、抑止力のためという本土の勝手な理屈で多くの米軍基地を押し付けられ、さらにまた美しい海岸をつぶして新たな米軍基地を造ろうとする動きがあります。イラク戦争に協力し、劣化ウラン弾で子どもたちが苦しめらることにも、日本は加担しました。兵器輸出の緩和さえ模索しています。
 他にも、福祉を削り落として、貧困を自己責任に転嫁するなど、言い出せばきりがありません。ともかく今の日本は、誇りにできる状態から程遠いと言わざるを得ません。

 しかしながら、誇りにできる状態にないから、国旗に一礼をしない、ということではありません。完璧な理想国歌家(twitterで誤字を指摘頂いた。多謝)はあり得ないでしょう。しかし、理想を目指すことはできる。しかし、そのそぶりさえ日本にはない。それが問題です。
 
 もっと問題なのは、名誉にかけて誓った理想を足蹴にして気にもしない今の日本を、一部の人たちが、褒め称え全面的に肯定させようとしている点です。この人たちは、国旗や国歌に対する一定の態度を声高に要求し、人々をそれに従わせる空気を作り出そうとしています。
 声高に主張され、人々を従わせようとする空気に従うことこそが、日本の国の足を引っ張り、誇れる国から遠ざける元凶だと思います。
 人々を従わせようとする空気に抵抗することによって、日本という国はどうあるべきか、ひとりひとりが考えを表明し、自由に議論しあえる空気が生まれ、それによって日本は良い方向に動き出すことができるようになります。
 人々に同じ空気を強制して現状のままの日本を肯定させようとする風潮に対して、風穴を開け、誰もが考えを自由に表明しあい、あるべき日本、目指すべき日本を皆で模索しあうことによって、誇りにできる日本、世界から敬愛され信頼される日本が築かれる。日本を誇りにできる国、世界から敬愛される国にするために、頭ごなしに押しつけ型にはめようとする風潮があるうちは、国旗への一礼はなるべく控えようと考えております。

<以上、初回答弁の原稿>

<一問一答のやりとりの最後(要旨)>
Q:村長は子供たちが国旗に礼をしないようになる方がいいと考えているのか?
A:教育内容について行政から口を挟むことは控えるべきだと考える。なにをどう教えるかは、教育委員会の管轄である。国旗に対して、どういう態度を取るべき、とか、取るべきでない、とか、これまでも申し上げたことはないし、今後も申し上げるつもりはない。

<新聞記者(信濃毎日新聞、長野日報)との取材でのやりとりの最後(要旨)>
Q:子どもたちには、どうあって欲しいと思っているのか?
A:いろいろな人がいて、いろいろな考え方があるのだな、と感じてもらえれば嬉しい。その上で、自分はどう考えるのか、じっくり検討して欲しい。こういう態度を取らねばならないと、ただひとつの形しか提示しないのは問題。型にはめようとするのはよくない。「まぁ、この場は空気を読んでこう振る舞うのが大人だし…」というような対応を積み重ねた結果、曾て、場の空気に絡め取られ戦争に向けて後戻りできない状況に陥り、後悔したのではなかったか。どういうものであれ、自分の感じ方、思いを気安く表明できる「空気」を創っていくことが大事。それによって、互いに議論が深まり、理想の日本、あるべき日本、目指すべき日本が模索され、その結果が皆に共有されていけば嬉しい。

2012年6月12日 曽我逸郎

【 6月18日加筆 】
 思いがけず大きな反響を呼び、驚いています。今日、朝の時点で、役場アドレスには40通のメールを頂いており、一通を除いて、すべて共感・賛同・応援でした。(一通は、「子ども達がかつてなら考えられない高汚染地域に放置されている」とは事実でない。風評被害や差別偏見を助長するので再考と猛省を…との内容⇒これへの反論は下に記載)
 twitterでもフォロワーが二百数十人急増しました。フォロー即ち賛同ではありませんが、多くのtweetにも、攻撃的なものはこれまで私の見た限りひとつもなく、共感の声ばかりです。
 また、多くの方が軋轢を心配して下さいましたが、それも特にはありません(私が鈍感なだけ?)
 地元紙の報道だけをご覧のおふたりから、私の不在中、役場に批判の電話があったそうです。
 それにしても、これだけ反響があったということは、なにか変だと感じつつ、それを口にしにくいもやもやした雰囲気が日本に漂っているということでしょうか。今後とも、言いたい事を言って、言いたい事を言える「空気」を生み出していきたく、みなさんお互い半歩前へ、頑張りましょう。

 『「子ども達がかつてなら考えられない高汚染地域に放置されている」とは事実でない』への反論
 『図解 原発のウソ』(小出裕章・扶桑社)から引用します。p63

 (放射能管理区域は)子どもを連れ込むなんてことはもてのほか。私の実験着が汚れていれば、管理区域の中で捨ててくる。私の手が汚れていたら、もっと洗って、汚染を落とす。水で洗っても石鹸で洗っても落ちないなら、薬品で、手の皮が少しくらい溶けてもいいから落とさなければ、外に出てはいけない。それが放射能管理区域です。その基準はいくつかというと、1平方メートル当たり4万ベクレルです。この数値を超えて汚染をしているものは、管理区域の外側には持ち出してはいけないというのが、日本の法律なのです。もしこれを厳密に適応するなら、福島県の東半分、宮城県と茨城県の南部と北部、栃木県と群馬県の北部、新潟県の一部、千葉県、埼玉県、東京都の一部を放射線区域の管理区域にしなければいけない……途方もない規模の汚染が生じてしまっています。

 

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