『上海ラプソディー』と『俺と戦争と音楽と』
和田妙子『上海ラプソディー』おもろい。前半のビッチっぷりはさておき、ナイトクラブ事情やレパートリーの妙に記述がしっかりしてると思ったら瀬川昌久氏が校正してたのね。
2012-07-19 21:22:33@yskwjm 和田さん、ミッキー・カーチスの自伝にも出てきますね。(和田さんの本にもミッキーが出てきますが。)
2012-07-19 21:25:00【蛇足的説明】
これは、和田妙子著『上海ラプソディー -伝説の舞姫マヌエラ自伝-』
と、
ミッキー・カーチス著『おれと戦争と音楽と』
で重なる部分についての話。
昭和12年12月3日、浮気性の二度目の夫リキー宮川と別れた妙子はミッキー・カーチスの実父・バーナード三浦と大連に駆け落ちした。7日、バーナードの父と妻の通報により、妙子は姦通容疑で大連警察に逮捕される。妊娠中の妻にとっての「姦通」という意味ではなく、リキー宮川にとって妙子の行動が「姦通」という意味。じっさいには、二人は国籍上の都合により入籍はしておらず、妙子は身元引受人が現れて釈放となる。
『おれと戦争と音楽』に出てこないのエピソードは、リキーは妙子と別れる直前に上記「妊娠中の妻」百合子ブライアンと交際しており、妙子はその不倫現場にて対面している。さらにリキーと別れた妙子はバーナードと交際を始めるが、そこで「妻」百合子をあらためて紹介され、夫妻が「割り切った関係」であることを告げられたりしている。
ミッキー・カーチスの本だと、母・百合子ブライアンは一家の中心となる聡明で明朗な女性として描かれている。妙子については、「実父だけど、ヒドい男」バーナード三浦とかけおちした「マヌエラという女」、「亭主がいた相手の女は、姦通罪で投獄されたそうだ」、「10年くらいしてオフクロのところに謝りに来た」という書き方。
マヌエラからすれば、駆け落ち以前の三浦夫婦のフラッパーな関係が抜け落ちて、自分だけ莫連女みたいな扱いになっているのが不満となるだろう。こまかいことだけど、大連駆け落ちのとき、百合子は「大きなお腹をかかえ」とミッキーは書いてるけど、彼の誕生日から考えて3ヶ月くらいじゃないのかな?
もうひとつ気になるのは、ミッキー・カーチス一家が昭和17年共同租界に引越してきたとき、妙子はフランス租界に住み、「ミス・マヌエラ」として上海芸能界で活躍し、四馬路交差点に建つビルの壁面にポートレートが掲示されたりする存在だったこと。当然、英字新聞の映画批評なども書いていた百合子ブライアンは、その存在を知っていただろうと思う。
@yskwjm これ調べたんですけど、米巡業でアメリカに残った天勝一座のメンバー天海が、株暴落で帰朝するとき川畑文子のニューヨークでの活躍話を持ち帰った(それがプライベート来日の川畑文子日本デビューに影響したか?)みたいなことのようですよ…乗越たかおさんの本など参考
2012-07-19 21:46:07松旭斎天勝が海外巡業の際、現地の芸人を連れ帰っているのは確からしく、ハワイからジョー・カバレロ(sax)、ジョニー・ハーボトル(bj&gtr)ら『フロリダ』で活躍するバンドマン(『ジャズで踊って』)、高層ビル綱渡りのヘンリー松岡(『魔術の女王一代記』)らの名前が挙がっている。
2012-07-19 22:55:26川畑文子が来日した昭和7年、天勝一座は山田妙子(マヌエラ)が幕間ダンサーとして参加し国内・大陸を巡業している。天勝の国内・大陸巡業には、1年後益田喜頓もタップで参加しており、ほぼルーティン化しているとおぼしい。また2代目天勝を育成している時期でもあった。
2012-07-19 23:08:01状況として天勝に川畑文子の情報が入っている形跡(妙子夫とジョージ堀の関係、天海の帰国等)は認められるのだが、反対に天勝本人が海外に出かけ芸人を物色するような余裕はあまり認められない。ただしドンデン返し的に天勝が連れ帰ったという事実、それを明言しにくい事情があるのかもしれない。
2012-07-19 23:15:13↑以前書いた和田妙子の話
乗越たかお@NorikoshiTakaoさんの『アリス ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(1999)を、今更読了。自分にとって80年代愛聴していた日本の女性ジャズ歌手は川畑文子だった。阿川「フラミンゴちゃん」とかは眼中になかった。
2012-06-25 06:39:49「フラミンゴちゃん」阿川泰子さんは幼少の頃より、その可憐な容貌をフラミンゴに喩えられ、「フラミンゴちゃん」と呼ばれていた由
とはいっても単独の復刻なんてされてなかったわけで、「思い出の東京」とか「スペインの娘」など数曲を繰り返し聞いていたに過ぎないのだけれど。http://t.co/aImFZOOMこれの日本訳だね「思い出の東京」http://t.co/byUfAcMc
2012-06-25 06:43:41乗越たかお@NorikoshiTakaoさんの『アリス 川畑文子物語』。執筆の動機のひとつに、斎藤 憐『昭和のバンスキングたち』に出てくる「もう私は川畑文子じゃないから」という本人の発言が挙げられているが、これは自分もずっと引っかかってた。http://t.co/kFU4HuGe
2012-06-25 06:46:42他のバンスキングたちの、町の雑貨屋を営む仲睦まじい老夫婦といったような晩年と異なり、その冷徹な拒否の姿勢が斎藤本の中で僅かな違和感を放っていた。だからそこに拘泥した乗越さんのアプローチにとても驚いたのだった。
2012-06-25 06:47:55ところで『アリス 川畑文子物語』は伝説的な上海の舞姫マヌエラこと和田妙子の自著『上海ラプソディー』と重なるデータが少なからずあり、微細な部分で補完しあっている。例えば、日本のタップ・ダンスの先駆者ジョージ堀についての記述がそうだ。
2012-06-25 06:48:32『アリス』によればジョージ堀は昭和7年2月頃新橋駅前の第一堤ビル5Fにダンス・スタジオを開設し、そのすぐ後第二堤ビルに移転したらしい記述になっているが、『上海ラプソディー』の記述と重ねると、これは共同経営者の死去によるスタジオの移転だったようだ。
2012-06-25 06:48:59長年米国でタップ修行を重ねていたジョージ堀は、昭和7年初頭、川畑文子来日より数ヶ月早く帰国し新橋にダンス・スタジオを開設した(『アリス』)。そのスタジオには共同経営者がいた。それが和田妙子の当時の夫、永井三郎こと永末柳二だった(『上海ラプソディー』)。
2012-06-25 06:50:00『アリス』によれば、ジョージ堀は母国の音楽発展と郷愁により帰国し、松竹の大谷竹次郎に認められ資金援助を受け云々となっているが、『上海ラプソディー』では永井三郎が日本に呼んだことになっている。「呼んだ」のニュアンスはともあれ当初共同でスタジオ経営を画策したことは事実のようだ。
2012-06-25 06:51:23『上海ラプソディー』によれば、松竹楽劇部教師の永井三郎は、自分がバレエの基本を、ジョージ堀がタップを教えるというコンセプトでダンス・スタジオの共同経営を計画したということになっている。そしてそれは、永井の昭和7年4月14日の死去により中絶してしまった。
2012-06-25 06:53:49一人になったジョージ堀は「小さくて家賃が安い新橋のビルに稽古場を移した」。ただ第二堤ビルは第一堤ビルに比べて特に小さくは見えない(むしろ大きいのでは?)。フロア一部分限定の賃貸ということか?http://t.co/HSRRnXG2第二、http://t.co/8vKNOFqv第一
2012-06-25 06:56:19このころ永井の妻の妙子(マヌエラ)は子供を育てながら病に伏せがちの夫の代わりにスタジオの事務的な事柄をサポートしていた。だから短い期間だが亡くなった夫の代行でバレエの基礎練習を教えることになる。そして、バーターとしてジョージ堀からタップを習っている。
2012-06-25 06:57:19