【上海租界街歩き in1930's 後編】

時に「東洋の巴里」と謳われ、時に「頽廃の魔都」と恐れられた戦前の上海へとご案内します!
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HIROKI HONJO @sdkfz01

【上海租界街歩き in 1930’s /後編】 長引く「ステイホーム」の憂さ晴らしに、戦前の上海を散歩する(気分になる)企画、第2弾。今回はロシア人街や日本人居留地、ユダヤ人難民収容地区、暗黒街を歩きます。 pic.twitter.com/f6LZxsjUWo

2020-06-20 16:18:37
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前編(バンドや南京路、高級住宅街など、華やかな表通りを散策)はこちらをご参照下さい。 togetter.com/li/1542034

2020-06-20 16:19:02
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前編の終着地点は瀟洒な洋館が立ち並ぶフランス租界西部でした。ここから、同租界を東西に貫くジョッフル・アヴェニュー(現在の淮海路)を東に向かいましょう。 因みに、この通りの名は、第一次大戦の英雄、ジョゼフ・ジョッフル将軍からきています。 pic.twitter.com/7i4SWgM1kg

2020-06-20 16:19:35
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ジョッフル・アヴェニューの中ほどにあるのは「リトル・ロシア」と呼ばれる白系ロシア人街です。 革命の惨禍を逃れて上海へ住み着いたロシア人の数は、1930年代半ばには1万5千人に上り、西洋人のなかでは最大の集団となっていました(上海の民族別人口構成は前編をご参照下さい)。 pic.twitter.com/sV0MCF65R1

2020-06-20 16:20:12
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体一つで流れ着いたロシア人の苦難は並大抵ではありませんでした。英語の出来ない者は肉体労働で生計を立てる他なく、中国人苦力と仕事を奪い合いました。中国人はこれほど貧しい西洋人を見たことが無く、彼らを「西洋乞食」と呼びました。 女性の境遇は更に悲惨で、2割が体を売ったといいます。 pic.twitter.com/X5rhbfOqvI

2020-06-20 16:20:47
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それでも彼らは逆境を耐え忍び、少しずつ成功を収めていきます。「リトル・ロシア」にはレストランやカフェ、雑貨店が開かれ、そのエキゾチックな雰囲気はフランス租界の名物の一つになりました。やがて学校や聖堂も建設され、白系ロシア人は上海の西洋文化の重要な担い手となります。 pic.twitter.com/q2ZpBQfc1f

2020-06-20 16:21:21
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「帝政時代のロシアを思わせるキャバレー『アルケディア』は、また、そのロシア風の料理でも有名であった。 キャビアも、ボルシチも、ウォッカも、すべて美味かった。女達は、…愛嬌の良い、元気な娘さん達であった。私達は飲み、食べ、そして踊った。」 (松崎啓次「上海人文記」) pic.twitter.com/MCxAEGy6pR

2020-06-20 16:22:11
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白系ロシア人のなかには、母国で専門教育を受けた音楽家やダンサーもおり、1920年代末、「極東一」と称せられた工部局交響楽団のメンバーの六割が彼らでした。 また、1935年には上海ロシアン・バレエ団が結成され、「白鳥の湖」などの古典的作品を定期的に演じ、観客を大いに魅了しています。 pic.twitter.com/9RiBEImnoU

2020-06-20 16:23:01
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彼らは、新興の経済都市上海の「成金」に、西洋の「高尚」なカルチャーを齎したのです。 他方、使用人や料理人として働く貧しいロシア人は、共に仕事をする中国人に西洋の庶民的な文化を伝えました。 ボルシチは羅宋湯(ロシアスープ)として今日でも上海の家庭料理に根付いています。 pic.twitter.com/DehtSjkl4R

2020-06-20 16:23:49
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「上海の中国人は、租界時代にひとたび味わった『西洋』-庭のバラや、ピアノの音色や、コーヒーの香りを、文化大革命の時代すらも忘れなかった。そのような生活への『こだわり』を教えたのは、イギリス人でもアメリカ人でもなく、『フランス租界のロシア人』だった」 榎本泰子「上海」 pic.twitter.com/VvtkfBJ8oE

2020-06-20 16:24:35
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では、ここでロシア人街を出て、ジョッフル・アヴェニューをさらに先へと進みましょう。まもなく、北は共同租界、南は旧市街(中国人街)に挟まれたフランス租界の東端に辿り着きます。 ここは、上海の裏の世界を支配する青幇(水運業者・港湾労働者の互助会がマフィア化したもの)の根城でした。 pic.twitter.com/V7q3eICtdG

2020-06-20 16:25:24
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この細い帯状のエリアには、青幇の三大ボス、黄金栄(画像中央)・杜月笙(右)・張嘯林(左)の邸宅があり、彼らが「三宝」と呼ぶ、阿片・売春・賭博の温床となっていました。 pic.twitter.com/vEhV7v4ZYh

2020-06-20 16:26:13
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黄金栄が自ら経営する中国人向け娯楽施設「大世界」は「悪の巣窟」と呼ばれ、レストラン、マッサージパーラー、様々な見世物小屋(当然卑猥なものも含む)、カジノ、淫売窟、阿片室などが曲がりくねった通路に展開する「支那人のあくどい幻妖的趣味が最も露骨に現れ」(松村梢風)る場所でした。 pic.twitter.com/SonOZsXLqv

2020-06-20 16:27:08
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また、杜月笙が阿片売買の資金調達や、マネーロンダリングのために設立した中匯銀行もこの地域にあります。 pic.twitter.com/fwz3MBtte5

2020-06-20 16:27:56
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青幇がここを根城にしたのは理由がありました。松村梢風はこう記しています。 「甲の租界で悪事を働いた奴が乙の租界へ遁げ込んだが最後、…甲租界の警官は指を咥えてゐなくてはならない。…家屋内に及ぶ警察権は、其の家に住む人の国籍如何に依って、各国領事館警察の手に属している」(魔都) pic.twitter.com/jAkgsDLwu2

2020-06-20 16:28:51
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このような警察権の錯綜は、共同租界や中国人地区と隣接するフランス租界東端では特に顕著で、犯罪組織にはうってつけだったのです。 しかも黄金栄はフランス租界警察の幹部を務めていました。若き日の彼は一巡査として阿片のヤラセ捜査で手柄を上げ、警察署長にまで昇進したのです。 pic.twitter.com/wItHXh7lUp

2020-06-20 16:29:49
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こうして青幇はフランス租界に根を張り、同租界内にある上海最大の6つのカジノを支配していました。その中でも最も大きな一八一号は、共同租界との境界に面するフランス租界東端にあり、毎日1,000人が出入りするモナコ風の賭場でした。ここは会員制で入場者は厳重なチェックを受けたようです。 pic.twitter.com/BfksrjP5QP

2020-06-20 16:30:43
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「自動車が横付けにされると門衛等が入場者の顔を検めた上で門を開く、自動車はそのまゝ門内に吸ひ込まれて更に玄関では頑丈な扉の一角の穴から門番が覗く…常連の客と雖も千元以上の金を懐中しない限り入場を許可せぬ」(坂田寛三『犯罪科学』) pic.twitter.com/Ot2QsYNqrk

2020-06-20 16:31:23
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さて、孤児から身を起こして黄金栄の片腕となり、さらに1930年代に青幇のトップに上り詰めたのが杜月笙です。1927年、彼は新興の中国人資本家(詳細は前編参照)や、蒋介石率いる国民党右派と結託して、上海の労働者の間に勢力を広げていた共産党組織を壊滅させました。(上海クーデター) pic.twitter.com/YJ3EZPRQ6V

2020-06-20 16:31:58
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1927年4月、青幇の構成員1,5000名が共産党の拠点を急襲、6,000名を殺害。ここに孫文の遺した第一次国共合作は崩壊、蒋介石が国民党政権を掌握します。 この功績により杜月笙は国民党軍少将に任じられ、以後はマフィアのボスに留まらず、政財界の大物として表社会でも権勢を誇りました。 pic.twitter.com/X8lwTtL5OD

2020-06-20 16:32:35
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「魔都」上海の腐臭は、フランス租界東部のすぐ北にある共同租界のファサード、バンド(前編参照 togetter.com/li/1542034)からほど近い福州路(四馬路の別称でも知られる)にも充満していました。 pic.twitter.com/VGmmkaktJR

2020-06-20 16:33:58
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「そこは全く別天地のような純支那街四馬路だ。ドラのひびき、胡弓の音、耳を聾する騒音だ!茶館、劇場等が雑然とある。ことに夜の盛り場で有名な野鶏(淫売)のビッグ・パレード、盛んに客をひいている、エロとグロの交響楽だ。」(大阪朝日新聞、昭和7年) pic.twitter.com/TDCqxUL0n1

2020-06-20 16:34:46
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「この歓楽郷のうらには恐ろしい夜の大統領の目が光るギャングの巣窟もある、阿片窟もある。世界の悪の華咲く魔都上海の中心はこの辺だ。…歓楽と恐怖、美と醜、清新と頽廃あらゆるものが混沌として氾濫しているうちに、しかも脈々と打つ怪物上海の勃興の力強さ!」(同上) pic.twitter.com/HQDkEwnP8F

2020-06-20 16:35:20
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福州路の一帯には中国風茶館の他、妓楼や阿片窟が集中していました。 「盛り場の四馬路には軒を連ねて料理店や茶館があった。一番大きな茶館は西蓮閣(画像)といって…店内はもうもうたるタバコの煙でむせ返るようだった。そして野鶏と呼ばれる夜の女が文字通り氾濫していた。 pic.twitter.com/xRDhRWJePV

2020-06-20 16:36:05
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そうした夜の女たちの多くは…胸に香り髙い茉莉花をつけていた。彼女たちは手に白いハンカチをもち、中国服の裾を太腿まで割って、その肉体をちらつかせながら客の注意を惹いていた」(西里龍夫「革命の上海で」) 一説によると、1930年代の上海には10万人の妓娼がいたそうです。 pic.twitter.com/XPMYp5SfFP

2020-06-20 16:37:14
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