橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判69
- crape_myrtle_
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御言葉をベースにしたメッセージに反論したいのなら、必ず御言葉による裏付けが必要となります。それは、クリスチャンとして当然のことです。御言葉が私たちの生きる基準だからです。
2012-08-04 07:26:29もちろん御言葉が一番大切です。ですが賛美の中に神が住まうという聖書の言葉があります。賛美歌を歌うことは私達のうちにある神の霊を解放することでもあります。それを聞いて神の霊を感じる人は感じるのです。@Acts_29_Japan 「歌を伝道の武器にしていませんか?」
2012-08-04 09:32:37@Acts_29_Japan ですから、本当の賛美歌を歌うことは伝道になると思います。事実、全盲で耳は補聴器をつけてかすかにしか聞こえない人がうちの教会におられますが、その人は大衆の賛美歌を聞くと反応します。何かを感じているのです。点字はできないので聖書は読めません。
2012-08-04 09:36:01@Acts_29_Japan 神の霊が抜けていてはただの聖書教になってしまいます。ホーリネスの教理は立派ですが、神の霊の理解が抜けているのではないですか?救いとは自分を律する行いから出るのではありませんよ。かといって聖霊派の聖霊理解とは違うということを付け足しておきます。
2012-08-04 09:39:35RT @Marx_hakase: 同じなんだからこれどうぞ、と言って旧約聖書など持っていったらシナゴーグで袋叩きに遭うぞ。
2012-08-04 16:09:06私が一々聖書の言葉をつけて話をしないのは、聖書がこういう、よく言えば多様性みたいなものを持っていると思うから。もう一つは成立背景まで調べあげるのが面倒だからw
2012-08-04 16:15:35RT @Marx_hakase: クリスチャン学者が使うBHSという聖書ももちろんそうだが配列も違うし内容も多少違う。それに英訳となると用語が違うんだよ。(英訳も種々あるのではあるが基本的にクリスチャン訳とは違う。)
2012-08-04 16:16:31例えば、クリスチャン訳の特定の訳の聖書箇所を、個人・あるいは宣教団体独特の解釈で「こうである!」と言われても、それはその個人あるいは宣教団体のプロパガンダ・フレーズ以外の何物でもないと思うし、聖書そのものへの冒涜でもあると思うんだけどねぇ
2012-08-04 16:20:24対抗する聖書箇所は浮かぶのだけど、それがどういう意味で書かれたものかを調べないと、自分の考えの裏づけとして用いたくない。そしてここがミソなのだが、そこまで調べて発言するのが面倒というか、そこまでしてまで意思の疎通を図る意義も感じないというか
2012-08-04 16:24:08ポーランドでも歌詞を聴く限り神を賛美しているが、歌う姿は自分に酔っているだけ~みたいな歌もあるので、あくつさんの言いたいこともある意味わかるんだけどね
2012-08-04 16:29:04---