紫苑は、おれがこの都市に来る一週間前に、交通事故で死んだのだという。自動運転のシステムが故障して、暴走車両と化した自動車に轢かれて。即死だった。あいつは、あいつが守ろうとした街に、殺されたんだ。
2012-08-18 15:09:47それを理解するまでには、だいぶ時間がかかったよ。イヌカシの説明が上手く頭に入って来なかったんだ。イヌカシと別れた後の記憶は、上手く思い出せない。気がついたら、夜の公園のベンチで、横たわっていた。ただただ、「なんてつまらない死に方をしたんだ」と思った。
2012-08-18 15:14:31気がつけば、おれたちが昔住んでいたあの地下の家の前まで来ていた。紫苑はもうこの世に居ないとわかっているのに、足は止まらなかった。部屋の中は、昔住んでいたときのままだった。あんたが定期的に掃除したり、泊まりに来ていたことは、後から知ったことだけれども。
2012-08-18 15:24:26見慣れたテーブルの上に、見慣れない本が置いてあった。中身を開くと、それはあんたの日記だった。おれが旅に出てから、二人の思い出や、おれ宛の手紙のようなもの、仕事の話や、家族、友人の話。此処に来て、都市にも西ブロックにも居なかったあんたを、初めて見つけた気がした。
2012-08-18 15:28:43最後の日付は、その日の8日前、あんたが死ぬ前日に書いたものだった。その日の日記には、イヌカシの所のシオンの話が書いてあった。あの時の赤ん坊が、もう随分と大きくなったよ、と。気がついたら、もう随分歳月が経っていたみたいだ。と結んであった。
2012-08-18 15:33:07最後に書いてあったのは、ページの真ん中に、たった一言。少し右上がりの、癖の有るあんたの字で。「きみに会いたい」……その文字を指でなぞろうとしたら、その上に涙がぱたりとこぼれた。涙はもう枯れたものだと思っていたのに、次から次へと止まらなかった。
2012-08-18 15:40:45あんたを殺してしまったのは、他の誰でもない、おれ自身の甘さだった。あんたなら、この都市でずっと幸せに暮らして行くのだろうと。そう過信している自分がいた。だから、ずっと連絡もせずに放浪生活を送っていたんだ。
2012-08-18 15:46:44だけど、この様じゃないか。どんなに大層に生きていようと、人間なんて呆気無い。明日なんてどうなるかわからない。そうだと分かっているつもりだった。その「つもり」が、それに気づけなくなっていたこの鈍さが、この結果を生み出したんだ。
2012-08-18 15:50:31後悔という言葉では言い表せないくらい、おれは自分自身を憎んだ。死んで楽になろうかと思った時もある。だけど、あんたを思うと死ねなかった。死んで償えると思えなかった。だから、おれはあんたという記憶を、後悔を、最期まで背負って生きようと思った。死ねない苦痛に悶える覚悟をしたんだ。
2012-08-18 15:58:06それからの記憶は曖昧だ。20代後半のしばらくはジャーナリストとして生計を立て、30の時にある街に落ち着いて、少し長い期間を過ごした。43の時に、その街を出て、最後の旅先で病に伏した。暗い森の中で、一人だった。そこで、おれの記憶は終わっている。
2012-08-18 16:05:49動けなくなった時に、おれはようやく死ねるんだな、と安心した。無意味になった再会の約束も、あんたの思い出を背負う苦痛も、おれの生きる意味も、全部ここで終わるのだ。あの世も来世も信じなかった。おれは、自分の目指していたゴールはここだったんだと思った。
2012-08-18 16:13:40それが、あんたの知らない、前世のおれの物語。」それを聞き終わっても、紫苑は唇を噛み締めて黙っていた。ネズミは紫苑に近付いて、優しく髪を撫でる。「きつかったよな」というネズミに対して、
2012-08-18 16:24:57紫苑は低い声で「前世の、そして今のぼくの存在は、きみにとって重荷でしか無かったのか」と呟く。ネズミは「…捨ててしまえば楽なのに、手放そうとは思えなかった。重くて辛くなるくらい大切だった。どんなに苦しくても、愛おしかった」
2012-08-18 16:34:46「前世のおれは、諦めていた。失ったものはもう二度と手に入らない。後悔を抱えることでしか、罪を背負うことでしか、自分とあんたを繋いでいられないと思っていた。だけど
2012-08-18 16:41:13あんたは違った。自分が死んでもなお、未来に希望を持っていた。おれが捨てた約束を、あんたは果たそうとしてくれた。今のおれが此処にいるのは、あんたがそうやって強く望んでくれたからだ。おれが出来なかった願いを、あんたが叶えてくれたんだ」
2012-08-18 16:47:00そこまで言って、紫苑を抱きしめて。「やっと逢えた……」って。「長い間、待たせてすまなかった」紫苑は寂しかった記憶や楽しかった思い出に胸がいっぱいになって、「…逢いたかった」でも言葉が詰まってしまって。涙が溢れて。「ずっと、ずっと逢いたかったよ」って
2012-08-18 16:58:01しばらくはネズミに撫でられながら、お互いにぐずぐず泣いていたんだけど、少し落ち着いた頃にネズミが紫苑の名前を呼んで。紫苑は涙を拭いて、「…気づいてくれてありがとう」って寂しそうに笑って。「悲劇の物語の、最高のハッピーエンドだな」って
2012-08-18 17:09:58「おれは今日、この昔話を終わらせる為にここに来た。」と言うネズミに、静かに頷く紫苑。「前世のおれは、あんたに逢えて幸せだった」とネズミ。紫苑もその言葉を聞いて、「前世のぼくも、きみと逢えて幸福だった。最期の瞬間まで、きみを愛していた」
2012-08-18 17:39:04静かに目を閉じて、ゆっくりと降りてくるネズミのキスを受け入れる紫苑。この再会のキスは、この前世の物語の終わりの証。ネズミとの別れを覚悟した紫苑は、「なんて悲しいハッピーエンドなんだろう」と思いながら、前世の思い出のこの場所で、二人の前世の物語に幕を閉じた。→
2012-08-19 15:28:31年が明け、新学期を迎え、気がつけばもう2月も末。卒業式の準備もそこそこに、元会長の卒業祝いの準備をする紫苑のもとに現れたのは、生徒会顧問の沙布先生。
2012-08-19 15:35:20生徒会室に一人残って作業をしている紫苑に進行状況を尋ねる沙布先生。紫苑はまずまずです、と報告するも、だいぶ順調な様子。「こんな風に、誰かを送り出す準備をするのは初めてで、楽しいです」と紫苑。「昔、一度だけやろうとした時もありましたけど、そんな大仰に、やめてくれ、って断られたので」
2012-08-19 15:41:09「照れくさかったのね」と微笑む沙布先生。「もっと、ちゃんと送ってあげればよかった、って、今になっては思ったりもするんですけど」と紫苑。「彼がそう望んだんだから、それで良かったのかなって、そう思うことにしました。」
2012-08-19 15:46:03