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shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru
動物達と人間の違いは、暴力という表現方法以外に「願い」を手に入れた事だ。願う相手は「神」や「運命」だが、自然と人間の軋轢により人間が「思ったのが<願い>」である。かつては「神」に請うたそれを対人における表現方法として確立した。
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru
暴力も願いも起因する感情は、「恐怖」である。これを起因しないところで暴力も願いも行えない。しかし万が一恐怖のない暴力と願いがあるとしたら心情の暴走と狂気である。つまりその暴走や狂気が「好き」なのである。
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru
互いに恐怖により起因しているとわかれば、誰しも「理解」が得られる。恐怖する処をしないと互いに「願えば良い」のだ。その「恐怖」に起因する暴力の代替は「願い」ができる。しかし「恐怖」を起因としない暴力や願いは、「願い」だけでは難しい。。。それは「自然的物理的論理」。
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru
つまり「恐怖」を起因としない暴力や願いは、プレートによる地震がおき、津波が押し寄せる「自然」と同じ、何故なら各個人の「好き」に起因するから。
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru
ここに教育という洗脳の必要性が現れる。つまり「好き」自体をそういう暴走や狂気に持っていかない、その整備を必要とする処。文化、慣習、道徳、教育、魂、神全ては「好き」を変える為にあり、「恐怖」を知る事にある。
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru
大抵の人はそれを許容する、、、悪くないからだ、「洗脳」による内容が自らを「楽」にするし、それを実感しているからである。「洗脳」が上手くいかなかった場合が「怖い」←この怖いは「恐怖」を起因しているのである。ここで私たちは選択を迫られる。洗脳できなかった人達に「暴力」か「願い」か。。
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru
「暴力」にもいろいろな形がある。権利の剥奪、拘束など、「願い」にもいろいろな形。。
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru
大抵の人は許容すると言ったが、、、別名洗脳成功である。
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru
人間の進化の上で、我々の先祖が臆病者だから生き残ったという視点がある。戦い好きは戦争へ行って、勝手に死んでいった。。。臆病でビクビクしてたものの祖先が我々なら、この遺伝子はある程度は戦争好きより「恐怖を知る者」の方が多いとも考えられる。

コメント

shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru 2012年8月26日
まとめを更新しました。
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