レヴィナスのvisage

内田樹先生のツイートより。
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内田樹 @levinassien

昨日「外部から到来する理解も共感も絶したものが善であるか悪であるかを判定する基準はあるのですか?」という質問を受けました。すごい。泉下のレヴィナス先生が聴いたら遠い目をされることでしょう。お答え。「基準」はありません。でも、わかるんです。感度を上げれば。

2012-08-31 11:08:19
内田樹 @levinassien

レヴィナス先生のお言葉を引用します。「私たちが論じているのはそれを受け入れるものに、それから逃れたり、それについて分析したりする時間を与えない善である。」(『タルムード四講話』)。それから「逃れられない」となぜ私たちは感じるのでしょう?それはそれが「自分宛て」だからです。

2012-08-31 11:10:49
内田樹 @levinassien

「善」と「悪」を隔てるおそらく唯一の指標は「善は固有名に宛ててられる」が「邪悪なもの」からのメッセージは「不特定多数にばらまかれる」ということです。遠くにいる恋人からの使信とスパムメールくらいに違うんです。固有名に宛てられたメッセージはそれ自体が「祝福」だから、わかるんです。

2012-08-31 11:13:04
内田樹 @levinassien

「私こそがその宛て先である」という感覚、「呼びかけられているという確信」がレヴィナスがvisageという術語に託した意味ではないかと僕は思います。メッセージのコンテンツがまったく理解できなくても、メッセージの宛て先が自分であることはわかる。だとすれば、それはすでに祝福なのです。

2012-08-31 11:16:59
内田樹 @levinassien

悪は匿名的であり、それは「不特定多数」に拡散することを望みます。誰だっていいんです。頭数さえ多ければ。だから、悪の切迫からは「あなた以外の誰もこのメッセージを理解しないだろう」という懇請の声は聞えてきません。

2012-08-31 11:14:56
内田樹 @levinassien

「宛て先」とは「あなたがこのメッセージを受信してくれなければ、メッセージは誰にも届かず空中に消え、忘れ去られてしまう」ということです。それは宛て先に「存在してほしい」と切望します。ですから、「メッセージの宛て先である」ということは「すでに祝福されている」ということなのです。

2012-08-31 11:19:24