クロード・レヴィ=ストロース ”ワーグナーの4部作(ニーベルングの指環)についての覚書”

クロード・レヴィ=ストロース ”ワーグナーの4部作(ニーベルングの指環)についての覚書”(「現代思想 1985年4月号 後期 レヴィ・ストロース」P.58〜〈クレチャン・ドロワからワーグナーへ〉の巻末に掲載されている文章。)以下ベタ打ち抜粋。
1
彗虎 @momonokoko

クロード・レヴィ=ストロース ”ワーグナーの4部作(ニーベルングの指環)についての覚書”(「現代思想 1985年4月号 後期 レヴィ・ストロース」P.58〜〈クレチャン・ドロワからワーグナーへ〉の巻末に掲載されている文章。)以下ベタ打ち抜粋。(1

2012-09-02 06:12:31
彗虎 @momonokoko

一九七六年に、『神話と意味』(Myth and Meaning)と題する5つのラジオ対談集が、トロント大学出版の手をわずらわして公刊された。この対談は、私がカナダの放送協会の「マッシー・レクチャーズ」という番組で、英語を使って行ったものである。軽率、弱気のそしりは免れ得まい。(2

2012-09-02 06:19:17
彗虎 @momonokoko

英語について、いま一度苦い経験を重ねた次第だ。事済んでそれを直すもままならぬと知って、フランス語録音でさえうんざりするものを、まして今回はいっそう手ひどくがっかりして、文字におこされた原稿をただ茫然と眺めるだけであった。不幸にも、ワーグナーについて私はひとつ思い違いをしており(3

2012-09-02 06:23:10
彗虎 @momonokoko

(グンターとあるべきところをハーゲンにしている、四九ページ)、そのため推論全体が台無しになっている。この点をのちに指摘して下さったJ-J・ナティエ教授には感謝のしようもない。さきだつ第一六章は、ワーグナーを中心に論じられている。まことに、このあやまちをただすには絶好の機会と(4

2012-09-02 06:26:55
彗虎 @momonokoko

なった。前回はテープレコーダーがなめらかに回りつづけるかたわらで、外国語でものを論じるという非常事態あり、その気苦労と神経のいらだちのせいで、いわば手足をもがれたような按配だった。今回は、望みどおりに説明できたと思う。今回、私がひとつの例をとおして明らかにしたかったのは、(5

2012-09-02 06:30:44
彗虎 @momonokoko

一八、一九世紀の西洋音楽が神話の機能をみずからに負い、同じ働きを果たすために似かよった手段をとるそのやり方にほかならない。これこそは、ワーグナーに周到な表現が見出される現象といえよう。断るまでもなく、ひとつのモチーフが形をかえてゆくさま分析するために、私はただ意味論的な相のみ(6

2012-09-02 06:34:50
彗虎 @momonokoko

を扱うつもりだ。さらに韻律、調性、律動、和声にも変形が加わって、全体が豊かになっている。しかし、それを記述、分析できる才能はほかに求めなければならない。四部作に、「愛の放棄」とよばれるモチーフは都合二十回ほどあらわれている。私としては、いわんとするとおりのことをモチーフが(7

2012-09-02 06:43:00
彗虎 @momonokoko

そのまま述べている場合については無視したい。すなわち、出来事がおこるまさにその瞬間にモチーフが現れる場合、出来事が回想の対象となっているときにモチーフが現れる場合。さらにまた、新しくはあるがはっきり最初のと比較できるような状況で、モチーフが現れる場合である(たとえば、(8

2012-09-02 06:47:59
彗虎 @momonokoko

「ワルキューレ」でウォータンがジークムントに対する父の愛をなげ捨て、ついでブルンヒルデのいだく子としての愛をなげすてるときなど)。すべての場合がこれほどはっきりしているわけではない。そのほかにも、モチーフのくりかえしから、近似性の明確でない相異なるエピソード間にひそかな(9

2012-09-02 06:52:54
彗虎 @momonokoko

平行関係ないし対立関係が現れることもあり、それによって話の筋が縦横に張りめぐらされる。たとえば、「ラインの黄金」がそうである。第二場ではじめ二回にわたってモチーフが現れるのでなければ、筋の運びにひとつではななく、ふたつの愛の放棄があり、はっきりと対をなすということは、誰も(10

2012-09-02 06:57:01
彗虎 @momonokoko

気づかないにちがいない。アルベリッヒが愛を捨てるのは、黄金をわが身の自由にするためだ。他方、ウォータンは、黄金と同じく力の手段であるヴァルハルを得ようとして、愛の女神フライアを投げうつ(あるいは、そのふりをする。これについてはあとで戻る)。フリッカはそれをきびしく咎めたてる(11

2012-09-02 07:00:59
彗虎 @momonokoko

。これら二様の放棄行為に交換契約を思わせるものがあって、モチーフが形をかえてゆくその一部をなすが、そこに不変の構造がひそむことは、モチーフの再来からも明らかだ。けれどもこの段階では、それぞれは他と無関係にただひとつの状態から見抜くほかない。アルベリッヒが放棄する完璧な愛は、(12

2012-09-02 07:04:13
彗虎 @momonokoko

「力ずく」では得られぬものだ。しかし、肉の歓びの方はそれとは区別されており、「手管」を弄(ろう)せば何とかなるにちがいない。アルベリッヒの瀬踏みでは、黄金を餌にすればグリムヒルデはたらしこめるはずであり、第三場が描くのはそれである。したがって、完璧な愛がひとつの全体を(13

2012-09-02 07:09:57
彗虎 @momonokoko

なすとしても、アルベリッヒはあくまでもその一部を投げうつにすぎない。部分をもって全体に換える放棄といってよかろう。それとは逆に、ウォータンは愛の現実を捨てるのではない(現に、フリッカを前にして自分の色事を誇っている)。フリッカは北欧神話によれば肉欲と官能の守護女神であり、(14

2012-09-02 07:14:33
彗虎 @momonokoko

彼はその表徴する形而上学的形象を捨てるだけである。まさしく、完璧な愛の、アルベリッヒがけっして捨てようとしない相にほかならない。そして、手練を使って得ることのできるただひとつのものとして、アルベリッヒがこの部分を保つとすれば、片やウォータンがこれを捨てるのも手練を使って(15

2012-09-02 07:18:56
彗虎 @momonokoko

のことなのだ。なぜなら約束にもかかわらず、フリッカを巨人たちに手渡すつもりなどさらさらないからである。同様にして、「ワルキューレ」第二幕第二場で主題音楽の再来によって強調されるのはウォータンの挫折とアルベリッヒの成功とのあいだに相関、対立の関係があるということだ。(16

2012-09-02 07:22:29
彗虎 @momonokoko

ウォータンはとわわれのない存在を産むべく愛に身を委ね、他方、アルベリッヒは愛なき結合から、意のままになる存在を産み落とす。ジークムントとハーゲンとは、したがって互いに対称的かつ逆流したものとしてあらわれる。そこからは、ひとつの需要な結論が導かれよう。できそこないとはいえ、(17

2012-09-02 07:26:56
彗虎 @momonokoko

ジークムントはすでにジークフリートを予告しており、ハーゲンの身近かには、ゆき当たりばったりのグンターがいる。できそこないではないにせよ、少なくとも色あせた影にはちがいないこの男は、受け身のままに流されるばかりで、けっしてひとりでは事を成し遂げることができない。(18

2012-09-02 07:32:00
彗虎 @momonokoko

以上をまとめれば、三要素からなるふたつの集合があることになろう。ウォータン、ジークムント、ジークフリートの組と、アルベリッヒ、ハーゲン、グンターの組である。ところで、「ジークフリート」の出だし(第一幕第二場)からして、「光のアルベリッヒ」としてのウォータンと、(19

2012-09-02 07:36:19
彗虎 @momonokoko

「闇のアルベリッヒ」としてのアルベリッヒが対応していることは明白だ。すでにみたとおり、ウォータンのできそこないの息子ジークムントと、アルベリッヒのでかした息子ハーゲンとについても同じことがいえる。してみれば、ジークフリートとグンターによって表される残りの二要素もまた、(20

2012-09-02 07:40:00
彗虎 @momonokoko

対応しているにちがいない。いずれこの対応関係は、いずれ「神々の黄昏」で実現となろう。しかしながら、モチーフはくり返されてゆくことで、単にふたつの対応システムと平行関係におき、より深い意味層へと導く。つまりそこからは、それぞれのシステムに内在する意味の断片があらわれてくる。(21

2012-09-02 07:43:56
彗虎 @momonokoko

ここで、「ラインの黄金」の提起する、三日がかりで解決がはかられる問題をとりあげたい。それは互いに矛盾したいくつかの要求のあいだの葛藤にかかわっており、いやしくも共同体であるかぎり、与えずに受け取ることは禁じられている以上、その要求はまさしく社会秩序の根幹をなすといってよい。(22

2012-09-02 07:48:18
彗虎 @momonokoko

ウォータンが長槍に彫り込んだ文句からうかがえる法の精神とは、神々にあってさえ、いわんや人間にあっては、ただで手にはいるものなど何もないということである。この言い回しは詩と音楽の乖離によって、いっそう明確となったにちがいない。さもなければ、ジークムントが木から剣をひっこ抜き、(23

2012-09-02 07:52:07
彗虎 @momonokoko

放棄の主調音にもめげず、ジークリンデの愛をかち得るなどはけっして理解できまい。わけても劇的なこの瞬間に、仕草は音楽主題によって表現されていたメッセージを裏切っているように思える。なるほどウォータンの策略によって、ジークムントは力と愛とをふたつながらに獲得はしよう(24

2012-09-02 07:56:25
彗虎 @momonokoko

(ウォータンによって企らまれ、これまた失敗に帰する第二のシナリオで、ジークフリートは指輪の力とブルンヒルデ愛とをふたつながらに得るのと同様)。しかし、おりもおり、脅迫まがいにモチーフが再来して、いま目の前でくりひろげられている出来事との食い違いをあらわにする。(25

2012-09-02 08:01:22