美学校特別講座「中ザワヒデキ文献研究番外篇」第五回

美学校にて2012年6月より毎月第一、第三水曜日に開催されている「中ザワヒデキ文献研究番外篇」の第五回。 開催日:2012年7月18日 前半で読み進めた文章↓ 続きを読む
2
前へ 1 ・・ 5 6 ・・ 12 次へ
ひらま @qwertyu1357

”湯村輝彦一派の牙城はサブカルチャー誌の「ビックリハウス」(パルコ出版)や「宝島」(JICC出版局)で、霜田恵美子、スージィ甘金[スージー甘金]、伊藤桂司、湯村タラ、マーチン荻沢、中村幸子、太田螢一、飯田三代らの才能が輩出しました*5c4。” #番外

2012-09-05 20:11:06
ひらま @qwertyu1357

”この派には共通してキッチュな既視感がありました。たとえば湯村輝彦自身のイラストレーションはアメリカン・フィフティーズの、霜田恵美子は大正モダン広告の、スージィ甘金は藤子不二雄ほか幼年向けマンガの「ヘタうまい」引用でした*5c5。” #番外

2012-09-05 20:11:19
ひらま @qwertyu1357

中ザワ「写真が出てきて芸術不要論が起こりました。そこで筆を折った画家もたくさんでてきたんですね」 #番外

2012-09-05 20:12:01
美学校 @bigakko

RT @qwertyu1357: ”この派には共通してキッチュな既視感がありました。たとえば湯村輝彦自身のイラストレーションはアメリカン・フィフティーズの、霜田恵美子は大正モダン広告の、スージィ甘金は藤子不二雄ほか幼年向けマンガの「ヘタうまい」引用でした*5c5。” #番外

2012-09-05 20:12:22
ひらま @qwertyu1357

”*5c3 「ヘタうま」の考え方は岡本太郎の芸術の三原則をほうふつとさせるのみならず、印象主義や表現主義、抽象表現主義等の問題にも敷衍できます。” #番外

2012-09-05 20:12:54
ひらま @qwertyu1357

”すなわち当時「ヘタうま」に冠された「誰でも描ける。誰にも描けない」というコピーや、「素人を安心させ玄人を唸らせる」という言い回しは、「ヘタうま」に限らず写真登場以降の芸術の本質論に肉薄しています。” #番外

2012-09-05 20:13:09
ひらま @qwertyu1357

”また、前時代のスーパーリアリズムは、ヘタうまの対極の「うまヘタ」と解することができます。見かけは写真のようにうまくても、描きたい衝動が伝わらない、ひ弱なマニエリスムであるという意味においてです。” #番外

2012-09-05 20:13:24
ひらま @qwertyu1357

”マニエリスムはもともとは、技巧に走り内実が伴わないという揶揄の言葉でした。” #番外

2012-09-05 20:13:36
ひらま @qwertyu1357

”*5c4 霜田恵美子らが結成した「東京ファンキースタッフ」、太田螢一が企画した「衛生博覧会」等、さまざまな動きがありました。” #番外

2012-09-05 20:15:23
ひらま @qwertyu1357

”すなわち純粋に職能的なイラストレーションが目指されていたわけではなかったのです。” #番外

2012-09-05 20:15:43
ひらま @qwertyu1357

”漫画「情熱のペンギンごはん」が絵・湯村輝彦、文・糸井重里のコラボレーションとして出版されたり、漫画雑誌「ガロ」の蛭子能収、根本敬、丸尾末広らと共に活動したり、あるいは太田螢一がメンバーだったバンド「ゲルニカ」やテクノポップの「YMO」周辺等、同時代の諸文化との人脈的な連繋があり

2012-09-05 20:15:58
ひらま @qwertyu1357

”たとえばスージィ甘金の、マンガを選び取るセンスはロイ・リキテンスタイン的、それを執拗に絵の具の筆触を残して描くセンスはジャスパー・ジョーンズ的、そしてこれらが模倣としてでなくパロディとして行われるセンスはポストモダン的でした。” #番外

2012-09-05 20:16:46
ひらま @qwertyu1357

”後から振り返ると日本のヘタうまは、欧米以上にシミュレーショニズム的要素の強い新表現主義だったといえます。” #番外

2012-09-05 20:17:09
ひらま @qwertyu1357

”さて1980年代最大の動向であったパルコ主催の「日本グラフィック展」(日グラ)は、パルコのエンジンルームを率いる榎本了壱が仕掛けた公募展で、「ビックリハウス」系の姉妹誌が行った「日本パロディ展」(JPC展)を母胎としていました。” #番外

2012-09-05 20:18:29
ひらま @qwertyu1357

”1980年9月に開催された第1回日グラでは、応募作の多くはグラフィックデザインとして使用されることを前提としたスーパーリアル・イラストレーションでした*5c6。” #番外

2012-09-05 20:18:46
ひらま @qwertyu1357

”*5c6 とはいえ大賞は主流派からは選ばれず、大勢の浮遊する少女を画中に登場させた伊東淳によるジャパニメーション風のおたく画でした。当時はジャパニメーションはもちろん、おたくという語も概念もまだ無く、伊東淳のセンスを選んだ審査員たちと主催者の先見の明がうかがわれます。” #番外

2012-09-05 20:19:06
ひらま @qwertyu1357

”異変が起きたのは1982年の第3回展で、2,301点の応募作の大半を、デザイン前提とはいえないヘタうま的な作品が占めました。大賞は日比野克彦のダンボール・アートで*5c7、これが大事件となりました。” #番外

2012-09-05 20:19:41
ひらま @qwertyu1357

”*5c7 【未記入】ダンボールアート”中ザワ「当時は日比野克彦の段ボールアートという文章があったりしました」 #番外

2012-09-05 20:21:27
ひらま @qwertyu1357

”各種の画材を併用した落書き風味もさることながら、どこにでもありコラージュ的な工作にもうってつけのダンボールという素材への着目がヘタうま気分と通じ、それまでのデザインでもそれまでの美術でもない、何か新しいものに見えたのです。” #番外

2012-09-05 20:22:12
ひらま @qwertyu1357

”翌1983年の第4回日グラでは、手に手にB全パネルをかかえた応募者の長蛇の列が*5c8、受付最終日の炎天下の東京渋谷のパルコをぐるりと何重にも取り囲みました。 #番外

2012-09-05 20:22:43
ひらま @qwertyu1357

”応募総数は主催者の予想をはるかに上回る4,634点で、出品受付は深夜になってもまだ終わらなかったと記録されています。応募点数はその後も増え、ピークは1985年の第6回日グラにおける5,395点でした。” #番外

2012-09-05 20:23:10
ひらま @qwertyu1357

”日比野克彦を始めとする大賞や上位入賞者には東京藝術大学デザイン科の大学院生や卒業生が多く、「芸大旋風」と騒がれました。” #番外

2012-09-05 20:23:36
ひらま @qwertyu1357

”谷口康彦[谷口広樹]、タナカノリユキ[田中紀之]、伊勢克也といった面々で、彼らも湯村輝彦に私淑していましたが、湯村輝彦一派のあからさまなキッチュとは温度差があり、よりアート的でした*5c9 *5c10。” #番外

2012-09-05 20:23:54
前へ 1 ・・ 5 6 ・・ 12 次へ