- kashiwagiyugehi
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奈良興福寺の神事に参加するのは外山、結崎、坂戸、円満井の四グループ。滋賀の日吉大社には山階、下坂、比叡の三つ。伊勢神宮には呪師猿楽の二つ。法勝寺の正月の法会には大阪の新座、京都の本座、大坂の法成寺座の三つ。この三つは、上賀茂神社、住吉大社の神事にも参加する。『第四神儀』
2012-09-07 20:20:37なんで法勝寺に大阪、というか摂津の猿楽が出仕するんですかね~。住吉大社の方は、まあそうだろうと思うんですけれど…。 @zeaminow
2012-09-07 21:22:26@kashiwagiyugehi 原文は「法勝寺御修正参勤申楽三座 河内住新座 丹波本座 摂津法成寺」新座は摂津の榎並座、本座は丹波の矢田座、法成寺は摂津の座ですね。それぞれ大阪市城東区、京都府亀岡市、大阪府茨木市で、法勝寺は京都岡崎の地にあったそうです。
2012-09-07 22:03:56@kashiwagiyugehi 距離はありますが、春日大社と多武峯に大和四座が通っていたことを考えれば、ありえなくもないのでは。また『世阿弥禅竹』には、「観阿弥が進出する以前に京都で活躍し、猿楽の主流を形成していた座である。」とあり、かつての名残が残っていたのかなと思います。
2012-09-07 22:39:07特に榎並座は『申楽談儀』によく名前が出て来ますよね。《鵜飼》の鬼に関して「彼鬼の向きは、昔の馬の四郎の鬼也。観阿もかれを学ぶと申されける也」とありますが、他の部分に「河内の榎並の馬の四郎」とあり、観阿弥が参考にしたほどの役者がいた有力猿楽だったのでしょうね。 @zeaminow
2012-09-08 18:51:49そういえば大和猿楽は大和が本拠地のはずですが、京都で勧進や神事の能をつとめていたりしますものね。摂津や河内から京都へ行くのも大した問題ではないのかもしれませんね。観阿弥の進出によって、京都の猿楽・田楽の勢力は塗り替えられたのかな、と考えると楽しいです。 @zeaminow
2012-09-08 19:03:00@kashiwagiyugehi うろ覚えですが、春藤大夫って榎並座じゃなかったでしたっけ。脇方に編入されて名前だけは近代まで残っていましたね。
2012-09-08 21:10:41榎並座については、能勢朝次先生の『能楽源流考』(岩波書店、1938年)の中の「摂津猿楽考」に詳しいですが、その中で「春童」という役者に触れ、後のワキ方春藤流に繋がると書いてありましたね。『能楽源流考』公開されてました。 http://t.co/2elROEgB @zeaminow
2012-09-12 16:20:24@kashiwagiyugehi 源流考公開されているんですね。知りませんでした。春藤は昔調べましたけど、途中まで独自に活動してるんですよね。証拠はありませんけど一端断絶後に姓のみ残ったのではないかと思います。
2012-09-12 17:42:01春藤(童)もいわゆる「群小猿楽」とされているひとつでしょうか。秀吉期〜江戸初期にかけて能界が大和四座に再編されるあたりに名跡が復興されたもの…なのかな〜(空想のみでものを言う) @zeaminow
2012-09-13 18:05:59@kashiwagiyugehi 群小というとちょっとあいまいですが、大和の十二五郎座のような独立して活動していた座と考えて言いと思います。昔、春藤大夫が死亡したことを示す史料を見つけて論文にしたのですが、おそらく室町後期には断絶したものと思われます。
2012-09-13 18:09:55@kashiwagiyugehi その後江戸時代には春藤が金春のツレ家との伝承があったようですから、室町末期頃には金春座の中に春藤が編入されたか、同姓の役者が登場したかと思われます。証拠がないので推測に過ぎませんが。
2012-09-13 18:13:15群小猿楽、という言葉はちょっと曖昧すぎますね。すみません。十二五郎座は、観世系ですけれど、いつも観世と一緒に行動していたわけではないみたいですものね。世阿弥に御礼をいうために会いに何度か屋敷を訪ねたものの、結局会えずに手紙を置いていった話がありましたね。 @zeaminow
2012-09-13 19:37:16@kashiwagiyugehi 所謂「応永三十四年能番組」では、元雅、元重、十二次郎が合同で上演してますね。そういう意味では金春のツレ家に近いイメージかと。
2012-09-13 19:49:34推測と仰いながらも面白いと思います。金春のツレ家と聞いて、『隣忠見聞録』の金春のツレ大夫の項を連想したのですが、確認したら春藤大夫は載っていませんね。別にワキ方の項に「春藤元祖は本願寺より出たる」とありましたが。 @zeaminow
2012-09-13 19:50:29@kashiwagiyugehi あ、私の勘違いですね。ツレ家ではなく、脇役者として春藤六郎次郎の存在が確認できるということですね。こうなるとさらに摂津の春藤とは無関係な気がしてきます。
2012-09-13 19:54:50『能楽源流考』「榎並猿楽―附 春藤大夫―」を読み直しましたが「その祖先は異るにてしても、春藤といふ名目を以て世に呼ばれて居ることを考へると、或は春藤は榎並猿楽の春藤(春同)の藝系を引くものではあるまいかと疑ふことは許されようか」と。控えめ過ぎる程の表現でした。 @zeaminow
2012-09-13 20:08:38『能楽源流考』が引用する春藤六郎次郎の記録は本願寺の『証如上人日記』なので、そのあたりが『隣忠見聞録』の「春藤元祖は本願寺より出でたる」に繋がるんでしょうか。ともかく、摂津猿楽榎並座からそのまま春藤大夫に繋がるとは思いにくい、とは感じました。 @zeaminow
2012-09-13 20:19:55