- JunNakagawaWork
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「前提」に順じて、様々な「真」があるにすぎない。論理的形式は、導出的真・事実的真が証されていれば真である。しかし、現実そのものではない、truth であるが reality ではない。その意識を喪うと、「現実」の一般化による統一的本質という様なものをでっち上げてしまう。
2012-09-01 16:10:15エンジニアの仕事は、論理に頼って現実を限定する事ではない、あるがままの現実的事態を純化する(構成条件を明らかにする)事である。観る物を考える事によって抽象化するのではない、「存在(事物)」を理解する事とそれらの「正当化条件・真理条件」を枚挙する事はエンジニアには同じ行為なのだ。
2012-09-02 10:24:24事業分析は「現実」の観察を根本にしている。「観察」という語は意味が難しい。うっかりすると「見抜く」というふうな語感を混入してしまうが、もともと「規則などを守る」という意味なのである。科学で云う「自然の正確な観察」とは、自然の合法則性だけに注目する。それは事業の観察でも同じである。
2012-09-03 04:06:38海の向こうからITのキーワードが渡り鳥の様に飛来する。しかし、聞き慣れない概念は、自分流に合点して使う他はない──いや、ちょっと自分流過ぎる。時流に乗ずる概念を説くSEたちは多いが、従来の技術の中の何が新しい技術に抵抗しているかを落ち着いて論ずるSEは少ない。
2012-09-05 17:47:48従来から使われてきた技術の中の何が新しい技術に抵抗しているのか──それは因習となってこびり付いて落ちない遺物に過ぎないのか、それとも確かに正当性を訴えている生きた伝統なのか、そう問うSEたちが少ない。
2012-09-05 17:48:15モデル観という言葉が使われるが、どうもこの言葉は「観」になっていない様に私には思われる。「観」という言葉には、或る見方に頼って事態を見る事を強く否定する意味があって、現実そのものを写像する意味合いがある。「現実」を知る工夫は、そのまま「現実」の構成条件を知る技術に通じる筈である。
2012-09-06 00:47:07理論というものは研究家に任せて置けとエンジニアまでが言い出し兼ねない風潮に流れているのではないか。エンジニアにとっては、理論とは即ち「仕様」の事である。「仕様」とは技術の説明書だ、技術の言わば精神のごときものである。理論とは、我見(特称)という気儘な手段で自分をごまかさない事だ。
2012-09-07 01:49:29事業分析では「解釈」が「解釈」を生み「解釈」が鼠算の様に増え、その中でSEがウロウロしている。曖昧な「解釈」の上で「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」式に色々な「成功事例」を真似た様々な概念を立て、事業を分析している様な錯覚を大真面目でやっている。「事実」を観ないで論ずればそうなる。
2012-09-09 05:38:45技術とはエンジニアにとって一つでもいいから確かに役立つ機械が製作できるという事だ。プログラムでもいい、モデルでもいいが、とにかく有用な現実の形が創り出される手作業である。システムという観念は、造るという行為の中で知る事しかない。「概念」という辣韮(らっきょう)の皮剥きじゃない。
2012-09-11 23:02:44現代のモデル病は、様々な症状を現しているが、根本では、物に対する「模型」という手応えを喪っている事に由来している。「概念」の構成図を描いていると何かを分析しているつもりになるが、その何かが実は存していないのである。「概念」を確かにするには証明(アルゴリズム)という手続きを要する。
2012-09-12 00:14:39アルゴリズムとは、筆算の事である。「概念図」を描く事に夢中になっているSEたちは、こういう単純な事を忘れているのではないか。
2012-09-12 00:15:08「概念」設計などと称して入口も出口もない世界に飛び込んでいるのだから、出会う物と云ったら手応えのない言葉ばかりである。そこでは、言葉の「解釈」の戯れが許される──現状を批評している様な外見を呈しているが、「概念」を軽信しているにすぎぬ。
2012-09-15 01:37:56批評とは、「論理」(と「経験」)を尊重するエンジニアなら必ず持っている創造的精神であって、事に当たって正確な「模型」を造るまでは、「概念」を軽信しないとする意志である。実践というのは、まともに考えれば、懐疑(と工夫)を宿していて、「現実」を認めるから疑う事ができるのである。
2012-09-15 01:39:00