Specula 第四回「メディア論の困難」まとめ

7月24日(土)14:00-17:00 東京藝術大学上野キャンパス ゲスト:桂英史・門林岳史 + 池田剛介・千葉雅也 http://bit.ly/aZv21L (自由に編集お願いします)
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ishinao @ishinao2796

[specula]メディアアートが技術の実験開発という使命を失った今、はたしてメディアアートとは?という問いについて、明和電気が感覚的な喜びを活動コンセプトの中心に置く事や、かおすらが明らかに反メディアアートをやっている点などがある種可能性を表わしているのでは。

2010-07-24 20:19:20
ishinao @ishinao2796

[specula]ってことは技術的修練に重きを置いている映像科やメディアアート科のたぐいは他学科と教育区分があいまいになるし、雑に言えば必要ない。修練は劇場用ナラティブ映画とTV番組制作に予算をかけるべきで、わけわかんないメディアアート(この言葉も廃止して)は放っておくのが吉かと

2010-07-24 20:26:56
ishinao @ishinao2796

[specula]というかそういう話ではなかったんだよね今日は

2010-07-24 20:31:12
ishinao @ishinao2796

[specula]4回の講義はとても有意義で(かなり)豪華なものでした。60年黄金世代と80年同世代がディスカッションする場はなかなかありません。後期も参加したいと思います。

2010-07-24 20:36:18
pikomaro/お仕事募集中2024~ @pik0maro

前回と今回のspeculaはどっちもコミュニケーションを否定の可能性だった気がする

2010-07-24 22:35:36
ゴーキ @gauqui

そういえば、今日桂さんは、学生(?)からの質問に対して、動ポモ的な意味でのデータベースという考え方を、たしか"危険な考え方"というふうにかなり強く警戒してらしたのが印象的。 #specula2010

2010-07-25 00:44:18
@cineeye

今日のspeculaも面白いものだった。特に門林さんのお話は大変示唆に富むものだった。

2010-07-25 00:49:52
@cineeye

近代的主体が崩壊し、端末市民と化していくと、すべてが多対多のコミュニケーションとなり、それ以上外部のない世界(グローヴァル・ヴィレッジ!)が生まれる。そこでは、外部が内部を侵犯するという芸術のモデルは変更を迫られるだろう。すると、芸術は、作家は、作品はどうなってしまうのか。

2010-07-25 01:10:30
@cineeye

そこで門林さんは、マクルーハンが晩年に提出した四角形のモデルを持ち出す。マクルーハンも好んで用いていたゴンブリッチの用語を使うなら、芸術は地を図に反転させ、見えないものを可視化するものとなる。

2010-07-25 01:15:22
@cineeye

しかし、そこに桂英史は疑義を呈する。メディアを規定する言語、音声の問題を無視することはできないのではないか。今日のメディア状況に対して、作家的な介入はなくならないのではないか。つまり、外部からの視座は依然として必要なのではないか。

2010-07-25 01:22:48
@cineeye

それはもっともだと思うが、桂さんがそこで「疎外」という言葉を使うのに、私は疑問を感じた。いくらそれをポジティヴに捉えているといっても、マルクス主義的なコノテーションからは逃れられないのではないか。つまり、疎外からの回復というユートピア思想に引っ張られてしまうのではないか。

2010-07-25 01:27:53
@cineeye

だったら、「疎外」という言葉は使わない方がいい。桂さんは「疎外」をポジティヴに捉えていると言いながら、芸術は「疎外」なき世界を空想するものだと言ってしまう。この両義性は、「疎外」という言葉を使うがゆえに生じたものではないのか。

2010-07-25 01:37:07
@cineeye

やはり門林さんが言っていたような、見えないものを可視化するという話の方に、芸術の可能性はあるように思える。今日の世界においては、内部に無数の傷(ドゥルーズ=フーコー的に言えば「襞」)はあれど、外部はないのではないか。

2010-07-25 01:41:37
@cineeye

「疎外」よりむしろ、「疎内」こそが重要で、これ以上外部のない世界(そこではすべてがコミュニケーションと化してしまう)において、芸術は何をなしうるのか。これは前回のセカイ系の話とも通じる問題。

2010-07-25 01:52:41
@cineeye

いくら悪意を突きつけても、オタクはそれに気づかない、「萌え」として消費してしまう。前回、こういった話が出ていた。黒瀬さんはそれに対して、「悪意を突きつける」のとは違う方法での介入を考えているとのことだった。

2010-07-25 02:00:34
Eishi Katsura @ac_katsura

SPECULA第4回。昨日の後味の悪さがまだ残る。なぜだろってずっと振り返っている。(あれ、ハッシュタグってあるのかな、そう言えば)ま、いいか昨日の回に限って作っちゃおっと。 #specula2010_04

2010-07-25 11:35:00
Eishi Katsura @ac_katsura

ああ、 あるんだ、やっぱ。ここi。 #specula2010

2010-07-25 11:36:59
Eishi Katsura @ac_katsura

僕は肝心な問題提議をし損なったことが後味の悪さにつながってるのだと今感じている。

2010-07-25 11:41:23
Eishi Katsura @ac_katsura

つまり「メディア論」でいう「メディア」と(仮にあったとしての)美術理論の「メディウム」が混同されたまま議論されたこと。これが何と言っても胸につかえている感じ。 #specula2010

2010-07-25 11:44:44
Eishi Katsura @ac_katsura

門林君に「メディウム」と「メディア」の述語としての運用の違いを聞くべきだった。著書を読んでもわからなかったし。たぶん「媒介する形式」という広い意味で使っているのだろうけど、そこを意図的に混同しているのかってことを聞きたかった。 #specula2010

2010-07-25 11:52:09
Eishi Katsura @ac_katsura

批評も芸術のひとつ。その意見には条件付きで賛成。でも政治的なコンテクストのない批評って意味あるのだろうか。 #specula2010

2010-07-25 12:07:14
Eishi Katsura @ac_katsura

「述語としての運用の違い」→「用語としての違い」RT @ac_katsura: 門林君に「メディウム」と「メディア」の述語としての運用の違いを聞くべきだった。 #specula2010

2010-07-25 12:09:53
Eishi Katsura @ac_katsura

ロザリント・クラウスってどうなんだ。いったい。特定の自称批評家やアート関係者たちつくっている「ジャーゴンの村」内部での政治的なポジション闘争の具を与えてるだけ。しかもその抗争も言葉の言い換えだけで「そうですよね、重要ですよね」で談合。それはどんな時間なんだろ。

2010-07-25 12:22:00
Eishi Katsura @ac_katsura

ロザリント・クラウスについて。「群論」を理解するためには相当な数学的な素養が必要だろうと僕は素朴に思う。作品のための物質や顔料と混ぜる溶剤(メディウム)と「群論」との関係はどうしてもわからない。「ジャーゴンの村」の村長さんになりたかったのかな?! #specula2010

2010-07-25 12:34:37
Eishi Katsura @ac_katsura

Speculaという会そのもの意義や進行を考えさせられたことは確か。少なくとももっと僕には「ジャーゴンの村=批評」といった愚かなコミュニティ幻想を打破するサービス精神が必要だったのでしょう。その意味で力不足を実感しています。 #specula2010

2010-07-25 12:44:17