例によって、ぬる郷土史好きとしてこの街の発端を調べてきたぞ。/現在ではニッケルなどの一大鉱業都市となっているKalgoorie(カルグーリー)。この街のあたりはもともと何もない荒野だったのだが、1890年代に近辺で金が発見され、ゴールドラッシュが起きたことで急速に発展した。
2010-07-28 21:20:271880年代、この街の40km西にあるクールガーディの地で初めて金が発見されると、世界中から何万もの移民が一攫千金を夢みて集まってきた。そのなかに、アイルランド出身の山師パディー・ハンナン(1840-1911)もいた。彼は21歳で豪州にやってきて、東部とNZで山師として修業する。
2010-07-28 21:23:23ハンナンは1889年ごろに豪州西部に移動し、クールガーディ東方の採掘権を買い、調査を始める。93年に東方の調査に向かったとき、馬の蹄鉄が外れてしまい、当初の予定地より20km手前で野営することになるが、そこで偶然金脈を見つけることに成功した。
2010-07-28 21:30:11クールガーディに帰還したハンナンは役所に報告し、金の所在を知った移民が当地に殺到する。こうして1894年、とつぜん誕生したカルグーリーの街は急速に発展した。だが、ハンナン自身はこの波には乗れなかったらしい。記録によれば、発見報告から9ヵ月後に採掘権を手放している。
2010-07-28 21:35:16ハンナンはその後身体を壊し、しばらく豪州東部で養生した後ふたたび西部に戻って金を探しつづけるが、カルグーリーのような幸運にめぐまれることは二度となかったようだ(記録が乏しい)。1911年(71歳)、50年におよぶ山師稼業から引退し、メルボルンの家族のもとに身を寄せる。
2010-07-28 21:38:19そして1921年、「葬儀と墓石代、あわせて60ドルで収めるように」という遺言を残して死去。実際にかかった費用は33ポンド18シリング、現在の金額にしておよそ5000円強。その墓も省みるものはなく、1965年にようやく政府の補助金で修復されるまでは長らく荒れ果てたままだったという。
2010-07-28 21:41:21いちおう今では「カルグーリーの創設者」ということでカルグーリーの街中にはハンナンの銅像が建っていたりメインストリートに名前がついていたりするのだけど、なんとも報われない話ではある。
2010-07-28 21:43:21しかしマイナーな郷土史を調べるとこんな人ばっかりなので、やっぱり一番手だからって成功するとは限らんよなあ、というのがぼくの実感。有利であることにはちがいないだろうけど、最初に手をつけるのとそれを維持拡大するのって、才覚としては別分野なんだと思う。
2010-07-28 21:44:27さて今日の誰得観光記は、カルグーリーから北東18kmのカヌーナ。ここは1894年に金が発見され、数十年間ゴールドラッシュで栄えたが、金の枯渇とともに急速にさびれ今ではまったくの荒地に戻ってしまった。ぶっちゃけ気づかずにいちど通り http://twitpic.com/29okcb
2010-07-29 19:48:02かろうじて残るストリート跡の脇に、かつてのランドマークを示す看板が立っているだけ。ここが1905年には人口12000人、メインストリートには16軒ものホテル(パブ)が立ち並び、鉄道駅からは1時間に1本の頻度で列車が発着していた、 http://twitpic.com/29oldu
2010-07-29 19:52:50さてここには荒れ果てた墓地があるのだが、そこに日本人が3人葬られている。これに関連して興味深い(あくまでオレ的に)逸話が紹介されていた。/1893年に誕生したカルグーリーの街には60人ほどの日本人娼婦がいたのだが、その中にOsarnoと呼ばれる女性がいた。
2010-07-29 19:55:53OsarnoはChomatsu Yabu(藪長松)という洗濯夫と深い仲になり娘をもうけるのだが、どうやら仲が悪くなったらしく、カヌーナのJinarto Yanoなる日本人男性のもとに娘を連れてひそかに逃げ込む。これが1890年代末のことらしい。
2010-07-29 19:58:20Osarnoと長松の幼い娘は1900年に亡くなるがその後も彼女とJinartoは一緒に住んでいた。だが長松は彼女の居場所を探り出し、1902年カヌーナにやってくる。拳銃を握りしめ目を血走らせた(想像)長松は、12月10日18時半というから真夏の宵の口ですな、2人を射殺してしまう。
2010-07-29 20:01:35長松は駆けつけた警官に撃たれて取り押さえられ、死刑判決を受けるがのちに懲役20年に減刑される。撃ち殺された2人はカヌーナの墓地に埋葬され、今では墓石も倒れて砕けてしまっているがまだ墓石の文字はかろうじて読み取れる。/さて墓碑銘を見て2点、疑問に思う点が生まれたんですね。
2010-07-29 20:04:43まず碑銘からOsarno=村上ソノ(享年26、熊本出身)、Jinarto=矢野甚太郎(享年49、和歌山出身)ということはわかったのだが、かなり年が離れているし同郷でもないこの2人はどういう関係だったのか。単に客だったのか、数少ない日本人というだけだったのか、と思ったのだが(続
2010-07-29 20:07:20おなじ墓地に葬られているソノと長松の娘は「藪みさよ」と、父親の姓で葬られている。しかも一緒に彫られている地名は熊本ではなく、甚太郎の出身地のすぐ近く。素直に考えるとみさよの本籍=長松の本籍、つまり甚太郎と長松は同郷であり、長松の年齢は不明なものの2人は昔馴染みだった可能性が高い。
2010-07-29 20:11:14長松と甚太郎はソノを取り合ったのだろうか。とすれば甚太郎はソノの連れ子である長松の娘みさよをどういう目で見ていたのだろうか。/2つ目の疑問は長松のその後。甚太郎と同年代だとしても、獄死しなければ69歳で生きて出所した可能性がある。彼は日本に戻ったのか、それとも異国で客死したのか。
2010-07-29 20:15:23犯行当日の長松の行動は、いっちゃなんだが映画のようで興味深い。豪州の荒野のまっただなかにある鉱山町に列車でやってきて2人を探し当て拳銃で撃ち殺し、その後警官と銃撃戦になったのかもしれない。/長松はソノとの婚姻届を日本に送ったと主張しているので役所に行けば手がかりがあるかもしれぬ。
2010-07-29 20:21:30しかしはたしてこんな三角関係のドロドロ話に興味を持つフォロワーがどれだけいるというのか! 口直しにインド洋に沈む夕陽でもご覧ください。 http://twitpic.com/29oxbp
2010-07-29 20:43:51@wishigame 遅レスですが、舞台や状況がはまりすぎて想像をかきたてられますね。ゴールドラッシュは中国人、真珠の潜水夫は日本人という大雑把なイメージだったので、いろいろ調べてみたくなりました。当時各国に渡ったサーカス芸人たちのことも気になってるんですが。
2010-07-30 00:25:00@dempow そう言ってもらえるとありがたいです。19世紀末という時代に日本人が豪州に渡ることになった背景や、ゴールドラッシュに沸いた街の最盛期でのできごとだった、というのもあわせて、なんだかえらくドラマチックだと思いました。
2010-07-29 21:36:55だいたい矢野甚太郎が1853年生ってことは江戸時代生まれなんだよなあ。それが日清戦争の後くらい(?)に豪州に行ったわけだ。おソノさんにしても自分の意志で行ったのか、人買いにでも売られたのか。
2010-07-29 21:42:40