自国語での教育から文化・文明談義まで
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御意。同じことですが「共和」は逆輸入(「古代漢文の中にあった語彙を使った欧米の語彙の意訳が中国へ」)とも。@katot1970 「共和」の由来で、それが年号になった。史記由来の言葉を再利用した @hanao_sunday @MiyagawaMasaaki @YoISOMICHI
2012-10-19 17:50:01![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
はい。逆輸入です。逆輸入は他にもありますね RT @y_mizuno: 御意。同じことですが「共和」は逆輸入(「古代漢文の中にあった語彙を使った欧米の語彙の意訳が中国へ」)とも。RTか 史記由来 @hanao_sunday @MiyagawaMasaaki @YoISOMICHI
2012-10-19 17:52:11![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
当初societyの訳語は混乱しましたが、次第に安定した結果。@YoISOMICHI 社会も明治に日本で作られたものだ。人民、民主主義、共和国、社会主義などヨーロッパ語の訳語として明治期に新導入。 @katot1970 @hanao_sunday @MiyagawaMasaaki
2012-10-19 17:56:15![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
http://t.co/upuEJ819 p.7 societyの訳語をここから採り、逆輸入されましたね RT @YoISOMICHI: @hanao_sunday @MiyagawaMasaaki @y_mizuno 社会も明治に日本で作られたものだ。
2012-10-19 17:58:10![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
日本物理学会と日本数学会の前身は明治10年に発足ですが、これを当初「東京数学会社」と呼びました。「会社」とはsociety ... の訳語でした。 @YoISOMICHI @katot1970 @hanao_sunday @MiyagawaMasaaki
2012-10-19 18:00:41![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@y_mizuno @takeonomado 五弦の琵琶とか、丙午の女コワー とか、中国本国には一切残っていない一時の流行物が日本になぜか残っていたり、文化の流れって不思議ですね。今日本で流行中の付け睫毛バチバチも、どこかの離島に残されたりするかも(笑)
2012-10-19 18:24:59![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
文化の伝播と断絶は、焚書坑儒みたいに、歴史的には普通の現象ですが、文化大革命が最近だっただけに目立つのかもしれません。 RT @y_mizuno: そういう言い方もできますか… @tabibitoneko: 東南アジア華僑の人と前話したら、(中略)本国では廃れた習慣~
2012-10-19 18:33:16![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@tabibitoneko @y_mizuno インドのエンジニアを京都観光に連れて行った時に、インド仏教のサンスクリット語が寺社に数多く残っていて、「京都はインド仏教のタイムカプセル」と感涙。自分はエンジニアがサンスクリット語と仏教を語るインド文化の厚さに驚きましたが。
2012-10-19 18:41:345.江戸末期の蕃書調所
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「渋江抽斎」改めて眺めてみましたが、興味深いディレッタンティズム。「幕府は安政三年二月に、蕃書調所を九段坂下元小姓組番頭格竹本主水正正懋の屋敷跡に創設」とあります。 @yasujikato 九段下に碑があります。森鴎外の渋江抽斎にでてきますね。@murapyon71
2012-10-19 22:30:58![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@yasujikato @y_mizuno 天文台の一部局であった当初は「蛮書和解御用」ですね、文化八年五月に設置。安政四年正月十八日に「藩所調所」として独立とあります。ちなみにその後は、文久二年五月十八日に洋書調所。文久三年八月二十九日に開成所とあります。
2012-10-19 19:49:09![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@yasujikato @y_mizuno 蛮書和解御用は浅草天文台の時のことですね。和解御用掛の初代として任命されたのが語学の天才として名高かったという長崎小通詞馬場佐十郎とあります。
2012-10-19 19:59:35![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@murapyon71 @y_mizuno 寛政異学の禁により朱子学が官学となり、雄藩は藩校を作ります。そこで育った人材が明治維新で活躍します。各藩は優等生を湯島聖堂に送り込みます。また、商都大坂では商人の尽力で懐徳堂が生まれます。そこから富永仲基が出てくるのです。
2012-10-19 20:47:13![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
「蕃書」を最初は「蛮書」と呼んでいたのが少し笑えます。南蛮という意味でしょうが。一種の卑語…。野蛮人の書か(苦笑)。異国、夷狄という概念が残り、紅毛碧眼、異人さん…。お互い様ですが^^ @yasujikato 藩書取調所ですね。九段下に碑があります。 @murapyon71
2012-10-19 20:49:04![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
藩所は蕃書ですね。@murapyon71 天文台の一部局であった当初は「蛮書和解御用」ですね、文化八年五月に設置。安政四年正月十八日に「藩所調所」として独立とあります。ちなみにその後は、文久二年五月十八日に洋書調所。文久三年八月二十九日に開成所とあります。@yasujikato
2012-10-19 20:51:02![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@y_mizuno @yasujikato オランダ通詞の前の南蛮貿易で入手した書物から来ている言葉だと思います。当時ポルトガル人(南蛮人)はマカオを拠点として日本に来ていたので、中国の南の方から来る異人ということで南蛮人と言ったのだと思います。←※うろ覚えですf(^^;
2012-10-19 21:44:06![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
はい、よういうようなことだと思います^^ @murapyon71 オランダ通詞の前の南蛮貿易で入手した書物から来ている言葉… 当時ポルトガル人(南蛮人)はマカオを拠点として日本に来ていたので、中国の南の方から来る異人ということで南蛮人と言ったのだと @yasujikato
2012-10-19 22:32:576.富永仲基と懐徳堂
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@yasujikato @y_mizuno おお!仲基というと山片蟠桃と双璧をなす大阪商人の星ですね。『出定後語』という著書が有名^^ 内藤湖南が『先哲の学問』で仲基の『翁の文』にある「加上」という考え方が天才的だとしてますね。『翁の文』は仲基が十五六才の頃らしいのでまさに天才。
2012-10-19 22:07:27![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@murapyon71 @y_mizuno 『頼山陽とその時代』『蠣崎波響の生涯』『木村蒹葭堂のサロン』の中村眞一郎の最晩年の三部作が江戸時代後期の江戸と大坂を双極とした知的世界の豊かさを教えてくれます。
2012-10-19 22:19:31![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
加藤周一の日本文化解釈もそれ、「加上」という考え方と同じですね。彼のオリジナルかと思ってました^^ @murapyon71 『出定後語』という著書が有名^^ 内藤湖南が『先哲の学問』で仲基の『翁の文』にある「加上」という考え方が天才的だとしてますね。 @yasujikato
2012-10-19 22:43:21