前近代の野戦では、以前述べた様に、戦闘手段は防御も攻撃も似たようなものだった。それでは劣勢側が勝つ見込みがほとんど無いのは、現代の我々より当時の人たちの方がよく理解していたろう
2010-08-18 00:22:39肥沃な平野が続き、いざというときに逃げ込める山が無い地域では、高い城壁は物見櫓と接近戦の拒否の双方を同時に達成できる手段だったに違いない。弓矢等の投射兵器は、城壁の防御を更に強力にしたろう
2010-08-18 00:31:22当然、そのような城壁は構築に多大の財貨や人力が必要になる。強力な君主ほど難攻不落の城を築き、また君主より強大な城を築く家臣はやがて下克上でのし上がっただろう
2010-08-18 00:35:55もちろん、呉子の冒頭で言われている通り、そのような攻城器械は易々と製造できるものではない。ここにも、強国が弱者を併呑していった要因の一つがある。
2010-08-18 00:39:54上でも述べたとおり、城壁とは都市住民とその富を守るためのものである。城を攻めるとは、それらを力ずくで奪う事である。城塞=都市国家(城邑)だった時代には、それは国家の存続を左右する最終戦争だった。
2010-08-18 00:45:51都市国家から領域国家に変わっていくと、城砦=都市は国家そのものではなく、国家にとって重要な戦略拠点となる。もちろん重要な事に変わりは無いが、死活的重要性を持つ城砦は首都等に限定されていく
2010-08-18 00:48:17ここにおいて、攻城戦は「戦争の最後の決」から、「戦争におけるいくつかの結節の一つ」に変化した。その一つの結節を遂行する行為と、結節の一つ一つを列ねていく行為の違いは、当時の人にも分かっていたろう
2010-08-18 00:54:39その違いについて文章化されたものが兵書としてあったのかどうかは、寡聞にして知らない。あるいは兵家の奥伝とされていたのか。その後中国の兵法は政治倫理と結びつくか、HOW TOものになっていく
2010-08-18 01:00:11防御とは、攻撃を破砕する手段である。こちらから出て行くことは、限定目標の攻撃を除いてはない。つまり、長城を築いたという事は、「これ以上北には行かない」という意味でもある。
2010-08-18 01:05:07即ち、長城線の北側(外側)での行為と南側(内側)での行為とは、心理的に与えるインパクトが違っていた。これは20世紀になっても変わっていない。
2010-08-18 01:10:44また、歴代中国王朝も、言われるほど拡張主義ではなく、むしろ内向きな政権だった。ただ、これは平和愛好という意味ではなく、国内政治の都合で外征する/しないという、かえってはた迷惑な(そして大国としては自然な)国でもあった。
2010-08-18 01:16:20プラトンはソクラテスの口を借り、アテネから港湾までの城壁は不要、と言わせている。細かく検証したわけではないが、「人は石垣」のような意味だったようだ
2010-08-18 01:37:48また、コミケスタッフで有名なテルモピレーの玉砕戦も、誇張はあるにせよよく知られている。やはりギリシアから始めないといけないだろう
2010-08-18 01:41:58地中海世界の歴史の大きなイベントとして、ペルシア戦争は避けて通れない。オリエントの大国が欧州の小国に攻め入ったというシンボル的な戦争
2010-08-18 01:53:19