2021年5月1日

歴史上、世界で最初の「長城」は、チグリス・ユーフラテス両河の上流に河から河まで連結する城壁として築かれたもので、紀元前2058年にウル第3王朝のシュルギ王が構築を命じた

長城の起源とその歴史
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

歴史上、世界で最初の「長城」は、チグリス・ユーフラテス両河の上流に、河から河まで連結する城壁として築かれたもので、紀元前2058年にウル第3王朝のシュルギ王が構築を命じたのが最初だとのことです。バクダードの北80kmにあり、メソポタミア南部への北部からの侵攻を防ぐ役割を果たしてました。 twitter.com/fushunia/statu…

2021-05-02 01:03:15
巫俊(ふしゅん) @fushunia

ウル第三王朝のシュルギ王は、現在のシリアからイラン西南部の地までを臣従させ、48年間統治した王で、その事績が「国土の城壁を建てた都市」(治世37年)といった年の名前として記憶され、粘土板に記されていました。「国土の城壁」とは、長城のことだとされます。

2021-05-02 01:04:03
巫俊(ふしゅん) @fushunia

論文蛮族侵入史観再考:蛮族侵入史観の成立時期(前田 徹(早稲田大学文学学術院・教授)、『セム系部族社会の形成』、2007年) P66「蛮族侵入史観が鮮明になる時期を考えるとき、注目されるのが、シュルギの孫シュシンの治世4年に造られたマルトゥの城壁である。

2021-05-02 02:17:10
巫俊(ふしゅん) @fushunia

西北方から侵入するマルトゥを防ぐために造られた城壁で、「長さが 26 ダンナ(約 280 km)であるその城壁と記す手紙があるので、万里の長城やハドリアヌスの城壁のような形態と機能を持った施設である。 シュシンは、この城壁を、「ティドヌンを遠ざけるマルトゥの城壁」と命名した。

2021-05-02 02:17:56
巫俊(ふしゅん) @fushunia

ティドヌンは、すでに初期王朝時代から資料に現れており、マルトゥ諸族の代名詞であった。「遠ざける」とあるように、中心地域を周辺地域の異民族から防衛するという意識が反映する。さらに、「マルトゥの城壁」の守備拠点であるバドイギフルサグの名も、「山岳地帯に面する城塞」の意味であり、

2021-05-02 02:19:58
巫俊(ふしゅん) @fushunia

山岳に住む周辺異民族に対峙する防衛施設の意味が濃厚である。シュシンは、周辺異民族と中心文明の敵対的構図を描くことで、長大なマルトゥの城壁を建設した。このときが、資料で確認できる蛮族侵入史観の最初と見做すことができる

2021-05-02 02:20:39
巫俊(ふしゅん) @fushunia

古代メソポタミアの出土史料を、年代別に精査していくと、ウル第三王朝の滅亡に相前後して「蛮族侵入史観」が高揚したことが分かったそうです。その結果、それより以前のアッカド王朝の滅亡も「蛮族の侵入」によって王権が交替したと記されるようになったが、それは事実に反するとのことでした。 twitter.com/fushunia/statu…

2021-05-02 02:33:27
巫俊(ふしゅん) @fushunia

これって、殷・西周時代の同時代史料の甲骨文・青銅器銘文が夏の滅亡」について何も語らないのにその後の時代の文献になると、王権の交替として記述されるのに、どこか似た性格がある話ですね。興味深いです。

2021-05-02 02:40:49
巫俊(ふしゅん) @fushunia

シュメール都市文明の滅亡 」 「ウル王朝の末期には、外敵の侵入が深刻な脅威となった。セム語系のアモリ(アムル)人はユーフラテス川の上・中流域地方で、部族的紐帯を保ちながら牧民として生活していた。ウル第三王朝時代には、彼らが次第にシュメール・アッカド地方に入り込んできたのである」

2021-05-02 02:51:31
巫俊(ふしゅん) @fushunia

「彼らの流入を防ぐために第2代シュルギ王 は「国土の防壁」を建設していたが、第4代シ ュ・シン王の時代になるとさらに長大な防壁が 作られた。いわば、「万里の長城」がシュメー ル第三王朝の時代に建設されたのである。もう ジッグラト建設どころではなくなっていたの である。」

2021-05-02 02:52:09
巫俊(ふしゅん) @fushunia

「ある文書では、「防壁建設を命じられた辺境の軍事司令官がシュ・シン王に手紙を書いて、アモリ人たちが近くにまで住みついていること、周辺地域から税を徴収できないこと、長城を建設するための労働者の数が足りないことなどを訴えた 」ことがわかっている 」(中公『世界の歴史1』からの引用とある)

2021-05-02 02:55:08
巫俊(ふしゅん) @fushunia

長城」は中国だけのものだと思われがちですが、古代ローマやイランにも存在していて、その最初のものはメソポタミアにあった訳ですね。古典的な防御方法でしたが、戦闘技術が変化してコストに見合わなくなると世界各地で廃れていき、中国では明代以降も残っていたものです。

2021-03-13 16:41:29
雨音村雲@藤浪永理嘉 @amane_murakumo

@fushunia ハドリアヌスの長城なんかはスコットランドとイングランドの国境のモデルになってますね あと部分的に残ってるのがドイツのリメス・ゲルマニクス

2021-03-13 16:53:49
はるやすみ @dandonban

@fushunia 先レスの五賢帝時代は自然地形(ライン川とドナウ川等)とこの線を繋ぐリメス櫓付きの長城に軍団兵を配置して国境線で防衛したのですが、軍人皇帝時代を経て国力を失い数個師団しか維持出来なくなった(図の)四帝分治制時代は侵入した敵を騎兵が追い回す戦術に変わったので、近いかもです^^;

2018-05-06 03:11:36
巫俊(ふしゅん) @fushunia

少し前の時代かもしれないですが、ローマ領ガリアの主力はゲルマン国境に釘付けになってて内部はリヨンに守備隊がいるだけだったと『フランス史研究入門』に書かれてました。首都ローマと運河でつながってる訳でも無いし、北仏の防衛が困難だという話も地図を拝見するとよく分かります。 twitter.com/dandonban/stat…

2018-05-06 02:40:41
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@amane_murakumo イランも調べたんですけど、かなり以前に調べたにで、詳細を忘れてしまいました。あと裏付けを取れなかったのですが、アフリカにもローマ時代の長城があるとどこかで読んだ記憶があって気になってます。

2021-03-13 16:56:35
雨音村雲@藤浪永理嘉 @amane_murakumo

@fushunia イランも結構色々な時代のが残ってますね アルシャク朝パルティア〜サーサーン朝ペルシャのとか アルボルズ山脈のこれとか pic.twitter.com/mprKrQcCqY

2021-03-13 17:01:23
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

戦国・秦代の「長城」は、中国固有の防衛戦術・・・という訳ではなく、ローマ帝国もペルシア帝国も同様の壁を国境線に構築していたそうです。長城に依拠した防衛は多くの文明国家で放棄された(はず)ですが、中国ではときどき修復され、明・長城のような古典的かつ革新的なものが生まれると。

2016-09-26 12:19:12
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 「長城は中国にしかない」と書いた本があったら、専門家が書いたものでは無いと思ってよいと思います。

2016-09-26 12:19:56
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 長城というと、北辺の遊牧民対策として作られた印象がありますが、斉の長城や魏が秦との国境に作った長城など、自国と同じような戦い方をする国から要所を守るために最初の建設がはじまったようです。

2016-09-26 12:31:26
drきのこる(専門なき専門バカ) @drkinokoru

@fushunia 川や山など自然を防衛線として上手く利用して、勢力争いするうちに自然と国境が出来上がる。あとは要衝・拠点を要塞化して国家の最前線として機能させるというイメージなのですが、中国の場合平野が多く、自然だけでは賄いきれずに人工的に補う必要性があったという所でしょうか?

2016-09-26 14:27:44
drきのこる(専門なき専門バカ) @drkinokoru

@fushunia防衛線」は冷戦期において(現代でも?)重要な概念で、「聖地たる自国に侵入する蛮族を防ぐ」という宗教的意味合いが普遍的に見いだされるわけですが、中国の場合同文明圏内でその意識が多分乏しい。純粋に軍事的な理由で構築されているのが興味深いなと思いました。

2016-09-26 14:34:54
drきのこる(専門なき専門バカ) @drkinokoru

ペルシア帝国の「長城」とかってどういうものだったんだろうか?ローマやオリエント西アジア諸帝国、あるいは秦漢とかの比較してのそれらの違いとかあるのかどうか、気になる所。インドは「長城」みたいなのあったのかしら?

2016-09-26 22:50:40
雨音村雲@藤浪永理嘉 @amane_murakumo

@fushunia (*´꒳`*)いつも面白いまとめ記事ありがとうございます 一応インドにも世界遺産級の長城が小規模ですがラージャスターンにある様ですね。エフタルなどの民族がヒンドゥー化したとされるインド北西部のラージプート諸族のうちアンベールの王が築いたものだそうで... pic.twitter.com/dEtDPNnK47

2021-05-02 12:45:13
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詳しい方からのご教示によると、ササン朝ペルシア(おそらくホスロー1世)はカフカス山脈の上からカスピ海までに百数十キロもの大城壁を連ねたとのことで、長城がカスピ海にぶつかるデルベント(現ロシア・ダゲスタン共和国)に「諸門の門」と呼ばれる巨大要塞が築かれたそうです。

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コメント

いせ@噴進砲 @HTkFVMg9pVG1sRy 2021年5月2日
なるほど、同じような条件が揃えば人間の考え得る対策は民族を越えて同じようなものになっていくと…知らないことを知るのは本当に面白い。そういえば、ウクライナとクリミア半島の間にあるペレコープ地峡にあるタタール壕(ペレコープ堡塁、要塞)は逆に掘り下げて障害物にしてるんですが、やはり日本では資料を見かけないんですよね。クルト・マイヤーの「装甲擲弾兵」を読んでから興味を持ったのですが、やはり独ソ戦の激戦地なのでほとんど現存していないんでしょうかね。もしそうなら残念な話です。
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巫俊(ふしゅん) @fushunia 2021年5月2日
HTkFVMg9pVG1sRy ご感想ありがとうございます。タタール壕は初めて拝見する名前ですが、「クリミアを支配した古代ギリシア人植民者や近世のクリミア・タタール人らは地峡に防衛施設としてペレコープ要塞やペレコープ堡塁を築いており、しばしば激しい戦いの舞台となった」(Wikipedia)でしたか。興味深く思いました。
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秋まで ずっと休みでよいんじゃね? @dandonban 2021年5月2日
古代日本だと記録に残っているのは蝦夷征伐の城柵だけど、前線基地なのよね。蝦夷は一枚岩ではないので、個別対応で十分だったと。ついで鎌倉初期の奥州藤原征伐では4㎞もの阿津賀志山防塁(福島県)を築いたけど直ぐに突破され、安土桃山時代の中国征伐で毛利勢は山陽~山陰に複数の城を設けて戦線を作ったけど、秀吉は付け城を作って各個・孤立させた上で、水攻め。戦が短期なので物理的な長城は構築できなかったみたい。
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巫俊(ふしゅん) @fushunia 2021年5月2日
dandonban 中世日本では、野外の長い障害物は「鹿垣」と呼ばれたそうですね。『信長公記』に佐和山城を包囲する4つの取出(砦)を鹿垣で結ってつなげたとありますが、その鹿垣の堀切・竪堀が出土してるそうです。江戸時代の例だと、対野生動物用の鹿垣は高さ3メートル程度で土塁や掘がありましたが、幕末の藤堂藩の『伊州御要害惣図』には軍事用に転用する指示・計画があり、鹿垣は野生動物の村から村への移動を遮断する目的のもので、例えばA村とB村の間の山・野をすべて鹿垣で区切って境界線にした例があります。
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巫俊(ふしゅん) @fushunia 2021年5月2日
記事を編集して、ツイートを大幅に追加しました。
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いせ@噴進砲 @HTkFVMg9pVG1sRy 2021年5月2日
fushunia レス&まとめ更新ありがとうございます。「タタール壕」という呼び方は私が知る限り「装甲擲弾兵」でしか見たことが無いので、ドイツ語の古い呼び方なのかもしれませんね。日本語で検索しても出てくるのは引用されていたWikipediaのペレコプ地峡の中の一記述に過ぎないのは寂しいところです。規模としては長さ10キロ足らずの幅広い塹壕に近いものなので、長城のような大規模構築物でない分、あまり関心は引かないのかもしれませんね。
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いせ@噴進砲 @HTkFVMg9pVG1sRy 2021年5月2日
本棚の奥から引っ張り出してきた「装甲擲弾兵」のタタール壕に関する箇所を引用してみますので、参考までに。「ペレコプ地峡は幅数キロ。その全域にわたって<タタール壕>によって分断されている。その深さは最高15メートル。底は皿のように平らで身を隠すものもなく、水のない川床がいく筋か。これは岸が切り立ち、場所によっては深いこともあり、<バルカ>と呼ばれている。部隊が隠れられる唯一のものだ。<タタール壕>のすぐ北が古い要塞都市ペレコプ。ペレコプを通り南へ鉄道線路が走っている。」
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いせ@噴進砲 @HTkFVMg9pVG1sRy 2021年5月3日
一点修正を。クルト・マイヤー氏の著作は「擲弾兵」でした。「装甲」が付くのは小林源文氏の劇画ですね。大変失礼いたしました。
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