歴史上、世界で最初の「長城」は、チグリス・ユーフラテス両河の上流に河から河まで連結する城壁として築かれたもので、紀元前2058年にウル第3王朝のシュルギ王が構築を命じた

長城の起源とその歴史
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drきのこる(専門なき専門バカ) @drkinokoru

あるいは、中山国など遊牧的な色彩が強い政権、遊牧民が南下して生まれた政権などもあったので、そういったものが与えた影響もあったりするのかしら?防衛線構築の初期においては「野蛮」の侵入を防ぐ的な要素があってもおかしくないといえばおかしくないかな?

2016-09-26 14:40:45
巫俊(ふしゅん) @fushunia

遊牧国家と農耕帝国が対峙する「図式」は、鉄器時代の中国などを参考に組み立てられたものですが、それ以前の青銅器時代(紀元前2000年頃)の歴史の仕組みが知られて無いために、過去もそうだったのだろうと誤解してしまった訳です。

2021-05-01 22:29:28
巫俊(ふしゅん) @fushunia

「騎乗」の開始時期は諸説ありますが、騎乗に耐える背骨が発達した馬を相当数、飼育してこそ良馬が得られる訳でして、組織的な騎馬遊牧集団が生まれるのは、鉄器時代に移行した後の「紀元前9世紀のスキタイ」が最初です。

2021-05-01 22:24:01
巫俊(ふしゅん) @fushunia

戦国の中山国は、中原北部の牧畜農耕民・白狄の鮮虞集団が建国したものですが、彼らは遊牧民ではありません。というより、それより以前の青銅器時代のユーラシア草原地帯では、遊牧民・農耕民の違いが明確では無く、移住先の環境により遊牧か半定住的な牧畜、それとも農耕かを選んでいました

2021-05-01 22:21:04
ぷぅ@Qar_Atoeb_ed @Qar_Atoeb_ed

遊牧民が移住先の環境によって農耕を営む事例は、古代から近代まで各時代を通じて見られます主にキビが栽培されていたようです。吉田順一「モンゴル人の農耕」『内陸アジア史研究』31、2016年が詳しいです。引用した史料を見る限りでは明代・清代からモンゴル人の農耕の記録が増えてくるようです。 twitter.com/fushunia/statu…

2021-05-02 00:20:25
ぷぅ@Qar_Atoeb_ed @Qar_Atoeb_ed

吉田論文を読む限りでは匈奴が栽培を行っていた史実は確認できないようですが、モンゴル時代から牧民が農耕を行っていたことを伺わせる史料があり、その後の時代もアルタンハン時代のトメド、清代のハルハ、オイラトが農耕を行っていたことが述べられています。

2021-05-02 00:38:02
ぷぅ@Qar_Atoeb_ed @Qar_Atoeb_ed

もっとも匈奴も配下の漢人に農耕を行わせてたようですので、遊牧国家といえどもその内実は牧農複合国家だったようです。戦国時代以降に華夷がはっきり分かれたのは、農耕民が官僚による領域支配を作り出したからなのかもしれません。西アジアと比較しないと何とも言えませんが

2021-05-02 00:38:03
今日が終わりの始まりの日 @__blind_side

万里の長城は”入れない”と同時に”出さない”とか、越の存在を把握しているとか、匈奴と”漢”民族政権との情報を巡る攻防って視点も面白いな。

2016-02-06 22:46:24

中国の長城は、紀元前数世紀の戦国時代に、河川の堤防を利用した「斉の長城」や、陝西省に進出した魏が秦の攻撃を防ぐために建設した「魏の長城」が始まりです。南方の楚にも長城があり、元は中国内地の諸侯の争いから生まれました。

今日が終わりの始まりの日 @__blind_side

@fushunia  時代と共に役割が変わっていくというのも面白いですね。始皇帝が燕や趙が築いたモノも再利用したという話ですが、そこには統一の象徴という意味も含まれているのかなと今思いつきました。

2016-02-06 23:06:03

漢代以後の中国では、草原地帯を軍事的に押さえていた王朝は万里の長城をさほど重視しておらず、草原地帯に脅威がある場合は、金や明などが、古い長城の修復を行い、新しく構築するなどしています。

はるやすみ @dandonban

この東西文化の差は気になるよね。ヨーロッパはローマ崩壊で大国がなくなり長城を整備出来なくなったのもだけど、かつての蛮族ゲルマン人が、次いでスラブ人が教化されて必要が無くなったのかな?(そしてモンゴル帝国に蹂躙される) twitter.com/fushunia/statu…

2019-11-06 22:36:41
巫俊(ふしゅん) @fushunia

「長城は、中国にしか無い」とか、独自文明を語ってる本があったら、それはたいてい歴史学に疎い人が書いてます。長城は古代のイランや古代ローマにもありました。ただ、中国では西洋で言うところの古典的な時代が終わっても、断絶や廃止の期間を持ちつつも、長城の再構築が行われ、明代に至りました。

2019-11-06 22:28:24
空 or せい @ku_999

@dandonban @fushunia 横入失礼します。唐代は長城内外に都護府、節度使を設置してますし長城で防衛する戦略ではないです中唐以後も長城線付近は独立藩鎮の勢力が強いため)。五代から長城内の燕雲十六州を失っているので(なので田畑や運河用水路による騎馬妨害も重要明代にようやく長城戦略に戻ってるのです

2019-11-06 23:26:53
空 or せい @ku_999

@dandonban @fushunia ヨーロッパはマジャール人以降、モンゴルの侵入まで遊牧騎馬民族の侵入といった民族移動現象が収まったので(モンゴルもその後はヨーロッパ侵入してないし)長城による異民族の食い止めの必要がなかったのがあります。ただし近世ロシアはクリミア・ハン国の侵入を食い止めるために逆茂木線を構築します

2019-11-06 23:31:22
Kanorin_EX @ant_onion

@ku_999 @dandonban @fushunia オスマン帝国の進出はどう見ますかねぇ…。まああの時代だともはや長城で守るというアイディアは放棄されたのかもですが。しかしその後の要塞と地雷と火砲の発達でマジノ線みたいなのも…

2019-11-06 23:36:24
空 or せい @ku_999

@ant_onion @dandonban @fushunia オスマンの場合は確かに火力戦ですけど、ハプスブルク家は砦を連ねて利益と引き換えに入植者を募集して防衛線を築いてました。これがハプスブルクでは最精鋭となった軍だったと

2019-11-06 23:38:33
空 or せい @ku_999

@ant_onion @dandonban @fushunia それでも中間地点はあったので、そのあたりのハンガリー人たちは両方に税を納める両属の地域・村落もありましたね

2019-11-06 23:41:50
Kanorin_EX @ant_onion

@ku_999 @dandonban @fushunia まあ係争地の住民は両属するか常に優勢な方を見定めてそちらにつくか色々と大変で…

2019-11-06 23:43:35
巫俊(ふしゅん) @fushunia

昨日、ブック●フで見つけた本は、「マルコ・ポーロの記録に万里の長城が出てこないのは、マルコ・ポーロが中国に行った事実は無かったことを裏付ける」とする内容だったけど、こういう記録って「触れないことには、触れない」から、長城が出て来なくても不自然じゃない気がする。

2018-12-31 12:44:27
Af @Sz73B

@fushunia 長城の最終形態が近代の要塞戦で、マジノ線あたりが最後の姿なのかな…と思いました。火力兵器と機甲部隊の発達で無力化したと。

2016-09-27 05:57:43
Af @Sz73B

@fushunia まあ、古代の長城はそれ自体が戦う場所にはあまりなってなかったように思えるので、近代の要塞とは根本的に異質であるとは思うんですが

2016-09-27 12:33:22

まとめ

この記事では、同じような条件が違えば、大陸の別々の地域であっても、人間は互いに似通った行動を取ることがあり、その象徴が古代の世界各地にあった「長城」であったと説明しました。

しかし、近年の考古学・DNA研究の発展で、ユーラシア草原地帯には先史時代から「東西交流」が存在し、青銅器や鉄器をはじめ、小麦や馬・牛・車、天文学からガラス工芸まで、メソポタミアを含む西ユーラシア世界と紀元前の中国の間には、直接・間接的な交流関係があったことが明らかになっています。

「夏」・殷・周から秦に至る古代国家は、草原地域を行き来する集団を通じて、西ユーラシア世界とつながっていました。古代中国の急速な発展と技術革新は、そうした西方世界の文化を取り入れた部分もあった訳ですが、中国在来の文化や、新たに中国で生まれた文化も存在しているので、はっきりしないこともあります。

ただひとつ言えることは、顔も見たことが無く相手の存在を知らなくても、意識されない交流関係が古くからあり、そうして相互の交流の結果、発展した中国と古代ローマ、ペルシア帝国では、「長城」のようなものをつくる物質的余裕、豊かさが生まれたと言えます。そこが交流の乏しかった新大陸の文明との違いでもあります。

巫俊(ふしゅん) @fushunia

グルジアカフカス山脈越えて大草原に出て行った印欧語族は5500年前に東西世界に急拡大してバルト海沿岸からモンゴルまでに広がってまして中国の文明にも大きな影響を与えてますウルクの銅文化(青銅より前の段階)が印欧語族を介して新石器時代の中国にまで伝来した

2020-10-08 13:39:44

メソポタミア文明についての論文紹介

巫俊(ふしゅん) @fushunia

jfe-21st-cf.or.jp/furtherance/pd… 論文ユーラシア地域における古代遊牧社会形成の比較考古学」 「紀元前 2000 年頃の西アジアにおけるセム系遊牧集団によるウル第 3王朝の崩壊」「実際には、農耕と牧畜を複合的に実施する半農半牧民」「農耕民、遊牧民、都市民などに分離・再統合するという順応的柔軟性」

2018-01-02 10:40:36