【重忠パパ】畠山重能が語る大蔵合戦まとめ【秩父党】
- Shigetada_bot
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それで、更にややこしい事に義平様の乳母は私の祖父、秩父重綱の妻でもある。これで乳母御前と呼ばれる方の家系の秩父系児玉氏が出てくるのだが…ちょっと家系図広げて良いか。言葉で説明するとここはややこしくてたまらん。(秩父氏・児玉氏関係系図) http://t.co/9olFguAy
2013-01-14 21:20:21姻戚関係の他に、名前がな。地名を苗字として行った者が秩父氏の中心でも多いようには思うな。RT @tokuro_bot 秩父一族の系図はややこしくて難しいですよね…(´・ω・`)
2013-01-14 21:29:36次郎「私は児玉党の縁者でもありますので、この系図のどなたかと縁戚関係にあった可能性もありますね」 五郎「えーこれがさらにごちゃごちゃするの?」 RT @Shigetada_bot: (秩父氏・児玉氏関係系図) http://t.co/zrgSHAh3
2013-01-14 21:32:17…本当に、ややこしいので一度家系図(今回のものは秩父氏の祖、秩父十郎武綱様からの流れと、武蔵七党の児玉党との関係図)を見ていただく方がよろしいかとは思う。
http://twitpic.com/bv2mib
(同じ画像ですまん)
参考までに、桓武平氏の流れを詳しく書いているページ(メインは千葉氏)もあるのでお時間ある時にお読みくだされ。
http://www1.ka6.koalanet.ne.jp/souma/titibu2.htm
なんでこうわかりにくいかというのは、この時代(平安後期)から鎌倉中期の東国の武家は、本貫地の地名を苗字として名乗るということが主流になるが(本姓と苗字は併存する)、特に秩父氏は父上の代くらいから殆どみんなして新たに苗字を名乗っております。兄弟ごとに違う名で、それなりに大きい家ばかり。それだけ一気に広大な土地を開発して行った勢いがある強大な一族だったということだ。
秩父、秩父言われてもよくわからぬと思うのだが、先ず、この時の事を話すのには、我ら秩父党の事や、この時期の力関係を説明したほうがよいだろうか。
2013-01-14 21:22:02秩父氏は、坂東八平氏と言われた平良文流のうちのひとつなのだが。我ら秩父の他、千葉、上総、三浦、中村、鎌倉。また土肥や大庭、梶原や長尾などは時期によって数えたり、数えなかったりする。
2013-01-14 21:22:38平良文という名に馴染みのない者もいるだろうが、桓武天皇の御孫、平朝臣を賜与された桓武平氏の祖である高望王の御子である。将門の叔父にあたる方で承平天慶の乱(いわゆる平将門の乱)では共に戦い、将門亡き後の武蔵下総両国を治めたと言われる。千葉氏に伝わる妙見菩薩像の逸話のお方だ。
2013-01-14 21:23:24土肥は中村氏の流れ、大庭・梶原・長尾は鎌倉氏の流れだな。 RT @Shigetada_bot 秩父氏は、坂東八平氏と言われた平良文流のうちのひとつなのだが。我ら秩父の他、千葉、上総、三浦、中村、鎌倉。また土肥や大庭、梶原や長尾などは時期によって数えたり、数えなかったりする。
2013-01-14 21:40:14三浦氏より。それぞれは栄えた時期により数える感じですが、まあ基本的にはどこかの流れに属している感じになります。
ちょっと話が遡ったが、良文の曾孫にあたる平武基が秩父牧別当に就き、その子である平武綱(秩父武者十郎)は後三年の役で八幡太郎義家様に従った。この時に賜った白旗が、我が畠山家に伝わっている源氏との古き繋がりを証すものだ。重忠も鎌倉殿への帰参の時にお持ちしたな。
2013-01-14 21:24:55源氏は東国に地盤を持ち、都と直接繋がる軍事貴族として由緒正しい家だ。特に義朝様がその曾祖父の頼義様の所縁である鎌倉の亀ケ谷へ来て相模を中心に大きく力を伸ばされた時期で、坂東武士団の有力なものとそれぞれ姻戚関係を結んでいた。久安4年には下野国守を任官されたところだ。
2013-01-14 21:27:17義朝様は十代前半で東国へ来ておられた。その際、当初は父の為義の所領である安房、その後に上総国に移り上総氏の後見を受けて坂東各地に影響を見せ始めます。
相馬御厨や大庭御厨への介入をしている頃には義平殿はお生まれで、というか朝長殿が生まれてるくらいで。東国をまだ5才の義平殿に任せて帰洛されました。義平殿は鎌倉を本拠に、三浦氏のもとで大切に育てられたということですな。
さて当時の坂東では、平氏の同族や源氏、土着豪族らの間で常に土地の争いが絶えなかった。国衙の目代として実質的な土地の支配=荘園の開発と守護をする武力の役割が東国の武士団だった。その中でも有力だった武蔵国秩父氏の惣領は本来は私の父が受け継ぐはずであった。
2013-01-14 21:31:09「武蔵国留守所総検校職」という役で、これは秩父氏の嫡流が受け継ぐものであるが、これを長男であった私の父、秩父重弘ではなくその弟の秩父重隆が引き継いだ。実質的な家督は我が家の流れにあったのだが、これが大きな遺恨となっていた。少なくとも実力で凌ぐのは我らだから尚更だ。
2013-01-14 21:32:12重隆の叔父上は当時、近隣する新田や足利とも抗争を繰り返していた。ちなみに義平様はご正室に新田(源)義重の女を迎えていたし、義朝様は足利との姻戚関係もあった。そんな時に、源義賢殿が東国へやってこられ、叔父上は娘を嫁がせ大蔵の館に養君として迎え入れたのだ。
2013-01-14 21:33:421155年の大蔵合戦の舞台、大蔵館。当時、帯刀先生義賢(源義賢)が秩父重忠の養君として暮らしていた。 http://homepage3.nifty.com/azusa/saitama/ranzanmati.htm
あの墓ボr…いや義賢叔父上が東国に下向してきたのは、大蔵合戦の2年前のことだった。最初は上野の多胡という所に本拠地を置いたのだ。今も館の跡地が残っているらしい。義仲も挙兵後にここを訪れたんだったかな。http://t.co/jkh8AIp7 >RT
2013-01-14 21:48:24叔父上としては、なんとか周囲の勢力とバランスを取り安定させることを目指したのだろう。しかし義賢殿はそれを超えて勢力を伸ばそうとされた。
2013-01-14 21:36:48そして、その様子は、前述の乳母御前や三浦の母君、そして私の妻などを通じて、義平様の耳に入っていた。北武蔵にとどまらず勢力を伸ばそうとしておると。…それぞれの思惑と脅威への対抗がそこで一致した。
2013-01-14 21:38:12- TLの源義賢様(頼長様のアカジャックをたまにされます)
なんか今日はにぎやかだねwwwwwwwww RT @K_Yoshinaka: ちちうえだ! RT yorinaga_bot: 三└(┐卍^o^)卍ドゥルルルルル
2012-12-30 22:12:50…気を取り直して。
また、源氏方の話で言うと、東国では義朝/義国/義光系のそれぞれが割拠しているような状況であり、その空白地点が北武蔵の大蔵であったこともある。しかしここは上野の義国=足利と南武蔵の義朝様の両方に接する地点。義賢殿は、ただでさえ双方を刺激する場所へ居座ったわけだ。
2013-01-14 21:39:56