ほしおさなえさんの140字小説10
- akigrecque
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波打ち際にしゃがんでいると海月がやってきて、こんばんは、と言った。こんばんは、と答えると、いい夜ですね、と言った。海月は透けていた。まん丸い月に照らされて海が生き物みたいに見えた。海と似てるのね。ええ、わたしは海の子どもですから。海月の身体がぼうっと光り、夢を形にしたようだった。
2013-01-10 20:23:15文字が動く夢を見た。アナカンムリの字とサンズイの字が語り合い、モンガマエの字はぼうっと窓の外を見ている。わたしは数字のなにかと話している。相手は親しげに話しかけてくるが、この人だれだっけ、と思っていた。夢の中でわたしも字だったのだろうが、なんという字か、鏡がなくてわからなかった。
2013-01-15 09:37:47古いガラスの器を見た。なめらかな曲線でできていて、溶けかかった氷のようだ。ガラスは固体ではなく液体なのだと聞いた。だからほんとうは少しずつ流れている。ガラスの時間はゆっくり進んでいるのだろう。ガラスに見つめられた気がした。わたしの姿は早送りの映像のように見えているのかもしれない。
2013-01-18 20:49:35むかし住んでいた家の近くにコインランドリーがあった。薄曇りの日にはいつも同じ男が隅の椅子に座って、ぐるぐる回る洗濯機を眺めていた。引っ越して十年。今でも薄曇りの日にコインランドリーを見ると、男の残像が浮かび上がる。彼がなにを見ていたのかわからないまま、ぽっかりと空いた影のように。
2013-01-22 20:53:23額にはいった古いヨーロッパの絵葉書が飾られている。白いレースの襟の服を着た小さな巻き毛の女の子が、モノクロの写真の中で笑っている。むかしこの子はほんとうにいたのだ。どんな声で笑い、どんなことを話したのだろう。どこからかピアノの音がして、女の子の頬が窓からの日差しに照らされている。
2013-01-24 08:33:05子どものころよく通った坂を歩く。あのころはいつも下を向いていたから、薮の下の雑草やアスファルトの凹凸ばかり見つめていた。道の上のわたしの影。自分の身体がなまあたたかく、重く、苦しかった。はじめて好きになった人を思い出す。 高い空に薄く、鱗雲が広がって、少しずつ重さを手放している。
2013-01-25 08:47:07大きな赤い満月が街の上に浮かんでいる。表面の模様までくっきり見えて、生き物みたいだ。子どものころ月も地球も宇宙に浮かぶ球だと教わった。大きな球が浮かんでいるところを想像すると怖くて眠れなくなった。夜は不思議だ。僕の心も暗い宇宙になって、僕はそのだれもいない宇宙をひとり漂っている。
2013-01-29 15:52:57朝の道を歩きながら、真っ青な空を見上げる。いまこの瞬間も、この星のすべての場所で、生きているものはみんな呼吸しているのだと思う。起きているものも、眠っているものも、生まれたばかりのものも、死んでゆくものも。息を吸い、息を吐く。遠くから鳥の声がする。世界が音楽のように息づいている。
2013-01-31 09:00:04朝起きると窓が曇っていた。ガラスにも金属にも細かな水滴がついて、空気がしっとり湿っている。夜のあいだに降った雨が、地面を濡らし、ふたたび空気のなかにのぼってきたのだろう。小さな水滴の一粒一粒に、土の気配が混ざっている。草や木や虫たちを育てるあたたかい土の息づかいに包まれている。
2013-02-02 10:56:02日差しがちらちらと落ちて来る。こんな日は子どもに帰りたくなるね、とその人は笑った。なにもかも手放して家に帰りたくなる。母さんに会いたくなる。家も母さんもこの世にないのに。その人の皺深い手をさする。こんな遠くまで来て、それでも家に帰りたくなるんだね。薄い皮膚がほろほろと光っている。
2013-02-05 18:19:17ねえママ、わたしってなんで生きてるの。わたしがいなくてもだれも困らない。死んじゃったなら悲しいけど、最初からいないならだれもさびしくないでしょ。夜の道で子どもは子どもなりになにか考えているらしい。その問いはね、答えられないんだよ。声に出さずに思う。星の下を手をつないで歩いていく。
2013-02-06 20:54:50