佐藤正美Tweet_201301_15

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佐藤正美 @satou_masami

事業は決して定まった説(パターン)の様なものではあるまい。事業分析に経験則・パターンを適用するSEの意図は、それはそれでもいいが、経験を定則化し得たとする自負など他愛ない事である。「現実」は個人の「経験」に一縮されるよりも豊富な条件に満ちている──個人の視点に収まり切らない。

2013-01-01 07:51:42
佐藤正美 @satou_masami

世評は、私(TM)の原理主義を云々するが、私(TM)には原理という様なものは毛頭ない。「論理と集合」を前提にして仮言命題(推論)を使っているだけである。現実的事態を構成している条件を一つも見逃さぬ様に しっかり観て はっきり書いているだけである。

2013-01-02 06:24:48
佐藤正美 @satou_masami

所謂「パターン」を蓄積するという様な事は、事業分析では発想上既に固陋な事である。事業の新しさは、環境条件の新しさから直に来るのであり、モデル上の新味を考案するという風な苦心は洒落にすぎない。

2013-01-04 14:47:32
佐藤正美 @satou_masami

事業分析の技術とは、個性的な営為を非個性的な「論理」で再構成するというアルゴリズムの技術である。しかし、こういう技術が、見掛けは機械的に見えるのは致し方なく、事業は論理で割り切れぬと思い込んでいるSEたちも多い訳であるが、分析が「論理」を前提にしない科学など有り得ない。

2013-01-07 08:44:48
佐藤正美 @satou_masami

如何にして業務知識を習得して事業の概念図を描こうかという悩みに苦心してきた「システム分析」の領域に、如何にして分析技術として「論理」を使うかという殆ど注目にもならぬ悩みを提げてTMは登場したのである。

2013-01-07 08:45:45
佐藤正美 @satou_masami

私はモデルを巧みに描こうとは少しも思っていないし、他人から称賛してもらおうとも思っていない。現実的事態の構成条件を如何にして記述するかと悩んだ挙げ句に、「論理」に対する執拗なまでの信頼とでも言うべき呪文がTMの技術として調えられたのである。それが原理主義の臭いを放つのであろう。

2013-01-08 10:04:35
佐藤正美 @satou_masami

「事業(の構成条件)を正確に記述する」、これが私が執拗に繰り返し続けた呪文である。それによって、一体、どの様なモデル技術が産まれるかはわからなかったが、事業分析に使うべき一群の技術は はっきりと見えていた。そして、自意識(私概念)が私の最大の敵であった。

2013-01-08 10:04:54
佐藤正美 @satou_masami

「システム分析」の世界に、数学のモデル論を導き入れ、これを恣(ほしいまま)に使う。数学のモデル論は、TMの根柢であって、ユーザ言語もentity概念も、これを駆使する為に便利だった生活の様式・概念すぎなかったと云っても過言ではないと思う。

2013-01-08 10:05:12
佐藤正美 @satou_masami

数学や文学は私の好んだ学科であるが、果たして私の友になったのだろうか、疑わしい事である。それらから学んだ知見を以て私はモデル論を探究し仕事を続けて来たが、数学も文学も私を苦しめ、いよいよ私を孤独にしただけではないか。私の見たものは寧ろ事態の構成条件の形をした個性のありかただった。

2013-01-09 07:50:25
佐藤正美 @satou_masami

コッド関係モデルを学んでいた30歳そこらのエンジニア(私)に、数学のモデル論に関してはっきりした自覚があったかどうかは疑わしい。「論理と集合」を当時学んでいたが、数学基礎論が私の念頭に入って来たのは45歳の時だった。それを学ばなければならない断崖まで私は追い込まれていたのである。

2013-01-11 21:44:27
佐藤正美 @satou_masami

TMでは「『関係』の性質(対称性・非対称性)」に関して特色的な文法があるが、これはただ作図の上の工夫(事態・事物の配置)で対応できる様な種類のものではない。「関数(特性関数)」(半順序・全順序)をはっきりと意識して使う事が出来る人でないと、こういう技術は腑に落ちないであろう。

2013-01-11 21:45:03
佐藤正美 @satou_masami

システム分析は、SEの特権ではない。「論理」さえあれば、誰にでも一様に開かれている思考である。SEという仮面を外してご覧なさい。

2013-01-14 16:01:05
佐藤正美 @satou_masami

システム・エンジニアの思考は、事態に臨み、変化に応じて条件の形式化を探るはずだが、モデル図と称して形式を軽視して一見自由に考えている様に見えて、実は概念の継ぎ接ぎである事が多い。「論理」形式を欠いているが為に、かえって自由に(あるいは、現実に即して)考えている様な外観を呈する。

2013-01-15 22:17:29