橘川幸夫氏の「企画書 1999年のためのコンセプト・ノート(1981年)」そのごく一部がTwitterでも公開中
偶然通りすがってボールを拾ってくれる人の名前はヒトラーというのに決まっているのだ。素人の時代とは、ひとりひとりの無名のあなたが、自分の意志でボールを取りに行くことだ。(1981年「企画書」)
2013-01-17 02:57:42時代の真の意味での困難さを喚ぎとる能力は、想い出の中に逃げこむことができる老人たちにはない(六○年代性老人症も含めて)。(1981年「企画書」)
2013-01-17 02:57:55逃げることもできず、あとは、待つこともできなくなったら、静かにボールを取りに行こう。そんなに簡単なことではないだろう。失敗を繰り返すことになるかもしれない。(1981年「企画書」)
2013-01-17 02:58:07でも「人間(しろうと)の失敗する姿は喜劇になりうるが、機械(くろうと)の失敗する姿は悲劇でしかない」と思っているから、「人間の失敗」については、笑って許しあいましょう。(1981年「企画書」)
2013-01-17 02:58:20自然生態系はもちろん、なによりも人間社会を構成している人間関係が、旧態のそれから大きく変容し、「関係の環境」崩壊はさらに速度を加えているように見える。(1981年「企画書」)
2013-01-17 02:58:47近代の技術(テクノ)は自然生態系を破壊したが、近代の意識(コギト)は、血縁・地縁といった、人間関係の「自然」破壊を為したとはいえないだろうか。(1981年「企画書」)
2013-01-17 02:59:00新聞が騒ぎたてているいくつかの殺戮劇は、ぼくたち自身の家意識の崩壊音として、あまりにも切実に聴こえはしないか?ぼくは、これからの仕事は、単にこの破滅的状況を近代以前の牧歌的状況に修復することではないと思っている。(1981年「企画書」)
2013-01-17 02:59:13自然を環境的にも関係的にも、取り戻すということは、結果としてそうなるのかもしれないということで、すべてを原始時代に戻せばそれですべてが解決つくとはとても思えない。(1981年「企画書」)
2013-01-17 02:59:23自然を回復すること自体は目的にはならないはずだ。時は戻らない。次へ進んでいくしかない。この解体された荒野の上に新しい世界を再構成していくしかない。(1981年「企画書」)
2013-01-17 02:59:35ぼくたちは、かつて一度だってユートピアに棲んだことはないし、将来に約束された地を持ったこともない。常に、この破滅的現実の彼方に足を一歩踏み出そうとする「動き」があっただけだ。(1981年「企画書」)
2013-01-17 02:59:46今や、誰一人として今の現実が正しい、このままで良いと思ってはいないだろう。正しいとは思っていないが「満足」はしているのかもしれない。(1981年「企画書」)
2013-01-17 03:00:03これはいったいどういうことなのだろうか? 政治家も庶民もぼくもあなたも、自らの足元が音を立ててガラガラと崩れている時に、それぞれが自分のまわりに「満足」のバリヤーをはってしまったのだろうか。(1981年「企画書」)
2013-01-17 03:00:13「満足」の校門からボールを取りに出る勇気が欲しい。やりなおすことも立ち止まることもできない。彼方の世界に、ひとりの「素人」として踏み出すだけ。(1981年「企画書」)
2013-01-17 03:00:39もし情報というものがなかったら、子供は大人になりやがて老人になり消えてしまうだけだろう。実際に今でも「人間なんてそんなもんさ」という連中がいるのだろう。(1981年「企画書」)
2013-01-17 21:02:56しかし情報というものがあるから、個体は個体のままでは死なず、必ず類として死ぬ。物質としての個体は滅びるが、情報としての人間は最初から最後まで滅びることはない。(1981年「企画書」)
2013-01-17 21:03:08子供→大人→老人、という成長の矢印には、もうひとつ、子供←大人←老人、という情報の矢印があるのだ。個体は確かに消える。若い個体も、やがて老い、そして消える。(1981年「企画書」)
2013-01-17 21:03:23しかし個体の軌跡は、映画館の看板となったり、立ち小便をした土砂の穴ぼことなったり、けっとばした小石の移動……というカタチで、世の中に残る。(1981年「企画書」)
2013-01-17 21:03:34歴史とは、事件史ではない。歴史とは、これまで現われ消えていった、生の、情報総量だ。それは単に過ぎ去った時間をケルンのように積み上げたものではない。(1981年「企画書」)
2013-01-17 21:03:45時間は直線的に空を突きさすような塔のようなものではない。時間は過去から未来へ突き進んでいる矢ではない。時間を例えば「容積」のようなものでイメージして欲しい。ぼくたちは時間の容積の中にいて「呼吸」しているのだ。(1981年「企画書」)
2013-01-17 21:03:57呼吸とは、一瞬のうちに最大限の単位になったり、一瞬のうちに最小限の単位になったりする運動だと想ってほしい。〈私〉は呼吸するのだ。時間を思いっきり吸いこんで最小限の単位まで凝縮された時が、いわゆる「個体としての私」である。(1981年「企画書」)
2013-01-17 21:04:12そしてすべてを吐き出し最大限となり、時間の容積そのものとなったときが「類としての私」である。「情報としての私」といってもよい。ぼくたちは個別な時間を生きる個人であると同時に、生物の全歴史と共に生きる人間という〈生〉物の一種だ。(1981年「企画書」)
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