【三国志】荊州都督と二王の夢

荊州においては、王基が都督となって以降、襄陽と新野に二人の都督が置かれるようになった。 その経緯とはどのようなものだったか? また、なぜ襄陽と新野に置かれたのか? それらについて考えた。
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Jominian @Jominian

荊州諸軍事の分割は王基の意思が作用したもの、という考えは捨てていない。なぜ新野と襄陽か?というのも、源は同じ王基。王基△

2013-01-21 07:40:18
Jominian @Jominian

襄陽が選ばれた理由は、まあ大体分かるだろう。劉表いたし

2013-01-21 07:47:48
Jominian @Jominian

都督二人が同じ場所に鎮守府を置くことはまずあり得ないんだろうな

2013-01-21 12:05:41
Jominian @Jominian

当時の魏の形勢から言えば、荊州都督が居るのに最も適した地が襄陽であるのは、確定的に明らか

2013-01-22 00:58:57
Jominian @Jominian

呉が襄陽攻めるのって、250年代以降全くないよね

2013-01-22 07:58:07
Jominian @Jominian

て言うか、240年代の初め以降ないか

2013-01-22 07:58:30
Jominian @Jominian

呉がだらしねえのか、王昶さんがつえーのか

2013-01-22 08:03:50
Jominian @Jominian

魏が荊州にあって南を窺うのなら、その最も適した地が襄陽であると述べた。なぜか?答えはその地勢である

2013-01-22 19:50:06
Jominian @Jominian

江陵より北へ出る道は、当陽より荊門を通る道となるが、これは襄陽にて山が左右に迫る。江陵より北へ出るに、襄陽を避けて通れないということだ。また、東に目をやると、夏口より南陽に向けて、左右に山の横たわる回廊状の平地が伸びている。これもまた、襄陽の僅か北にて北方への道に合流する

2013-01-22 19:56:43
Jominian @Jominian

すなわち襄陽は、江陵、江夏、いずれからの道も通じ、それが合流する場所である上、南からの敵を拒止しやすい地勢を示す。羊祜が新野ではなく襄陽に鎮したのも、その重要性ゆえである

2013-01-22 20:02:53
Jominian @Jominian

では、なぜ魏は長年宛や新野を要としたのか?それは、襄陽は重要であっても、むしろ重要であるからこそ、長く魏呉の争う地であった。それがやむのは、正始に入ってからのことである。それゆえに、魏は襄陽を国家の守りの要として整備することがなかなかできなかった

2013-01-22 20:10:36
Jominian @Jominian

この状況を変えたのが、その後、長く荊州を守護することになった王昶である。王昶は、府を宛に置き、軍を分散させるそれまでの方針を問題視し、都督の治所を新野へと進めた。これにより、呉は襄陽への侵攻が困難になり、以降、荊州における攻勢は頻度を落とすことになる

2013-01-22 20:21:29
Jominian @Jominian

この王昶の策は、ただ襄陽を守るためだけではなく、荊州における軸を襄陽に設けるための布石であった。後の荊州諸軍事分割は、王昶によってその基礎が築かれたと言えよう

2013-01-22 20:24:58
Jominian @Jominian

王昶によって固められた基礎の上に、王基が城を築くことになる。王昶の後を襲い荊州諸軍事となった彼は、早速荊州の都督を二人とし、襄陽に新たな都督を置く策を進めた。そして、江南諸軍事として襄陽に赴いたのは、誰あろう州泰であった。

2013-01-22 20:30:17
Jominian @Jominian

さて、ここで時計の針を巻き戻そう。嘉平二年のことである。王昶は、嘉平二年の末、孫権の死の虚を突かんとして、南へと軍を進めた。共に作戦したのは荊州刺史王基、新城太守州泰である。この時は、王昶らは呉を攻めきれずに退くこととなった。この戦役自体はともかく、重要なのはその顔ぶれである

2013-01-22 20:39:57
Jominian @Jominian

この戦で指揮を執ったのは、襄陽を府とするための基礎を設けた王昶と、後に揃って荊州都督となる王基と州泰である。これは偶然だろうか?そうではないだろう。王基と州泰は、王昶の志を全うするため、揃って荊州へと帰ってきたのだ

2013-01-22 20:49:29
Jominian @Jominian

思い出されるのは、この嘉平二年末の戦役の直後、同三年に王基が進言した対呉戦略である。彼は、江陵と夏口を同時に、大軍によって攻撃できなければ、呉を攻撃すべきではない、と述べている。これは、直前に行われた戦役の教訓、また、それ以前から王昶、州泰らと練った策をもとにした発言であろう

2013-01-22 20:55:59
Jominian @Jominian

荊州に二人の都督を置いたのは、この王基の、引いては、王昶、州泰ら三人の戦略に起因するものである

2013-01-22 21:00:38
Jominian @Jominian

大軍によって江陵と夏口を同時に攻める。これは、荊州に大軍を指揮することのできる二人の司令官が必要となることを意味する。新野と襄陽、二つの場所に都督を置いたのは、全て彼ら三人の意思によるものであったのだ。

2013-01-22 21:07:23
Jominian @Jominian

また、攻勢のためだけではなく、防衛についても、この策は考えられたものであった。仮に都督が江陵を攻めんと南郡へ向かった場合、襄陽以北に独自に軍を指揮できる存在がいなくなる。そこで思い出すべきは、襄陽以南の地勢である。

2013-01-22 21:10:28
Jominian @Jominian

都督が江陵で作戦している中、夏口の軍が江夏を抜いてしまえば、敵は遮られることなく中原を窺うことができるのだ。都督は敵と山に阻まれ江夏を救えず、襄陽へ退くことも困難になるからである。

2013-01-22 21:13:12
Jominian @Jominian

この問題は、襄陽の後方、新野に都督が置かれることで解決される。新野からならば、襄陽を救うことはもちろん、江夏を救うことも容易である。

2013-01-22 21:15:02
Jominian @Jominian

王基は荊州諸軍事となった後も、変わらず新野に居続けた。襄陽に鎮し、江北諸軍事を廃することまでした羊祜とは対照的である。この王基は、新野にあってどこを向いていたのだろう?

2013-01-22 21:32:34
Jominian @Jominian

それは王基の行動から分かる。彼は、荊州刺史の時代、上昶に城を築き、江夏を呉の侵攻より守らんとする意思をはっきりさせた。そう、王基は新野より江夏、その先の夏口を見ていた。彼の戦略の要は、何よりも夏口であった

2013-01-22 21:35:50
Jominian @Jominian

夏口は荊州と揚州を結ぶ地であり、後の呉討伐においても、ここを抑えることは戦略の要の一つであった。荊州を攻略しようとした場合、後の呉討伐におけるよりも、その戦略的価値は高まる。王基が夏口を見ていたのは、王昶や州泰と共に荊州を平らかにせんとした夢の現れである

2013-01-22 21:42:35