@gontaaya さんの「 #平清盛 全話Re-viewマラソン」まとめ
わざわざ「けり」という助動詞を末尾につけているところからして、この台詞は古語的な言い回し、つまり和歌的なつぶやきとして聴いてください、というサインを視聴者に送っている台詞なのだろうと思われる。そこで「花はさかりに咲きほこりけり」の和歌の用例を調べてみた。 #平清盛
2013-03-29 23:03:44「花はさかりに咲きほこりけり」という句を持つ和歌は、西行の家集にあるものだと思っていたが、見当たらなかった。勅撰集、前の時代から同時代歌人の家集などにもこのような和歌は見当たらなかった。なので、脚本家が春の雰囲気に合わせて創った台詞なのだろう、とも考えた。…が。 #平清盛
2013-03-29 23:06:57結論から先に言うと、佐藤義清の台詞「花はさかりに、咲き、ほこりけり」は、本歌取り表現である。以下、①本歌としての万葉集の歌 ②「藤波」の意味 ③「ほこる(誇る)」の意味、の三点からこの台詞の表現構造を明らかにしていこうと思う。 #平清盛
2013-03-29 23:09:40「花はさかりに」の用例は、全時代通して2例のみ(日文研データベース検索による)。2例しかない表現という事実は重要である。これは非常に個性的な句であることを意味する。すなわちこれがキーワード、大事な暗号になっているのだろうと思う。 #平清盛
2013-03-29 23:11:56「花はさかりに」の用例2例のうちの一つは、選子内親王の「いろいろの花はさかりになりぬとも野原の風は音にこそ聞け」。これは今回の表現との関連は薄いので、おいておく。
2013-03-29 23:12:29「花はさかりに」2例中の1例は 藤波の 花はさかりに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君 (万葉集・巻三、大伴四綱)《この太宰府で藤の花が満開になりました。奈良の都を懐かしんでらっしゃいますか、あなたも》(新潮古典集成)。これは『古今和歌六帖』に藤の題で収録されている。 #平清盛
2013-03-29 23:14:48本歌取りとは、有名な和歌を一部引用してもじること。「花はさかりに」が2例のみで、その1例が有名な和歌だとしたら、その歌を引用したと考える方が可能性が高い。では義清が万葉集の「藤波の花はさかりに」の歌を引用した意味は? そこには「藤波」という語から来る連想があると思う。 #平清盛
2013-03-29 23:16:43「藤波の花はさかりに」の「藤波」に注目。これは風にそよぐ藤の花房を波に見立てていう語である。そしてまた藤原氏一族のたとえとしても用いられる。特に「春日山北の藤波咲きしより栄ゆべしとはかねて知りにき」(詞花集・282)のように「北の藤波」で藤原北家をあらわすこともある。 #平清盛
2013-03-29 23:24:01璋子は藤原北家の末裔、閑院流の生まれである。義清は、万葉集歌の「藤波の花はさかりに」を本歌取りして、心の中で「藤波」を藤原氏つまり璋子に見立て、璋子の権勢が栄えていることの意に詠み変えて口ずさんでいるのではないか。 #平清盛
2013-03-29 23:26:57また「花は…咲き誇る」という用例は見あたらない。「ほこる(誇る)」は「自分は成功した、勝った、優れていると自信を持ち、それを態度に表す意。①自慢する②いい気になって機嫌をよくする」(『古典基礎語辞典』)とされる。得意気な人を批判的に捉える目線で用いられる語だといえる。 #平清盛
2013-03-29 23:33:59「花」が「咲く」ことに対して「ほこる」という言葉を使うのは、擬人化表現であり、きわめて意図的な表現だという事がわかる。つまり義清の「花はさかりに咲きほこりけり」の「ほこり」という言葉には、人を花に見立て、批評や揶揄の意味が込められている。その人とは、ずばり璋子だろう。 #平清盛
2013-03-29 23:37:30「花はさかりに、咲き、ほこりけり」とわざわざ区切って詠んでいるのは、歌人義清の本歌取り制作過程を表しているのだろう。本歌を思い出し、アレンジして、最後に本音を込めて「ほこりけり」と言い切った時の強い目の輝きなど、藤木直人さんは複雑な表情の変化で義清の心理を表している。 #平清盛
2013-03-29 23:38:31西行と桜、というのは象徴的な組み合わせで、桜の花を見る姿が映されたからつい桜の花の美しさを璋子に見立てた台詞と思っていたが、桜の花は義清の脳内連想のきっかけにすぎない。義清のポーカーフェイスと同様にこの場面に隠されていたのは、璋子の権勢への接近を狙う彼の野心なのだった。 #平清盛
2013-03-29 23:40:33義清の「花はさかりに、咲き、ほこりけり」は、本歌取りの形で、宮中における璋子の権勢を花に喩えてなかば皮肉り、またその璋子の栄華に接近しようとする自らの野心を口にした台詞と捉えられる。一つの台詞に、これほどの意味を仕込むとは。この脚本はマニアックすぎる。マニアックすぎる。 #平清盛
2013-03-29 23:43:20勿論こんな読みは必要ない。あの場面は桜と璋子をリンクさせたものと受け取って全く問題ない。ただちょっと詮索したらそんな読みも可能にさせる、和歌好きの脚本家が仕込んだ「遊び」なのだと思う。この「遊び」の要素が『 #平清盛 』の作品世界を実に深く豊かなものにかたちづくっていると思う。
2013-03-29 23:46:14情報過多の中でわずか数十秒の場面に本歌取りの仕込みがあると気付く余裕はないのは承知の上だろう。たぶん藤本有紀さんは義清(西行)が好きなのだと思う。だからこそその場のわかりやすさではなく、義清の歌才レベルに立って、なりきって、彼が呟くにふさわしい台詞を創った気がする。 #平清盛
2013-03-29 23:52:16藤本有紀さんの『平清盛』の脚本は、見る者にとって瞬時に分かりやすい人物像に引き下げて描くのではなく、歴史上の人物の偉大な個性に可能なかぎり接近しよう、巨大な個性をどうにかしてつかみ取ろう、と挑んでいる気がする。 #平清盛
2013-03-29 23:54:14人物の解釈は脚本家の主観に基づくものである。しかし人物を描くというのはその人物を観る自己のまなざしを晒すことでもあると思う。できるかぎり客観的に描いて見せようとしても主観はつきまとうのだという事を見据え、正面から引き受けているのが藤本脚本の覚悟と個性なのだと感じる。 #平清盛
2013-03-29 23:59:40