桜宮高校の体罰問題でもっと議論される必要があるのは、体罰の是非や学校教育のあり方なんかではなく「そこまでしてでも『勝利』を手に入れなければならなかったのはなぜか」ではないのか。
2013-01-30 17:14:27桜宮高校の体育会系の部活をやっていた生徒が認めたいのは「体罰」ではなくて「結果を出した自分」ではないのか。 「結果」がよければ、その「過程」が全て認められるような価値観に問題があるのではないか。
2013-01-30 17:19:41「苦しみは乗り越えると快感になる」ことを忘れると、体罰の話の全体は見えないかも。 少しずつ取り留めなくツイートします。
2013-01-30 18:50:12学術的な根拠は調べてないけれど、基本的に生き物は「苦しみを乗り越えると快感を得る」ようになっているように思います。 そうすることで、次にくる苦しみに立ち向かうサイクルが出来るようになっているのではないかと。
2013-01-30 18:57:43よく「結果が全て」と言うけれど「苦労しないで出た結果」は軽んじられることが多い。 これは本質的には「体罰を容認する空気」と同質のものだと思う。
2013-01-31 10:20:05「結果(成果)が全て」だから結果を出すことを求めているのではなく、結果を出さないと「苦しみはただ続いていく」だけになってしまう。 逆に言えば「結果(成果)」によって「過程」が肯定されるのではなく、結果(成果)には最初から「過程を肯定する機能が備わっている」ということ。
2013-01-30 20:58:53一方、苦しみを乗り越えたあとの快感の「大きさ」は、まず間違いなく「その過程で受けた苦しみの大きさ」に比例する。 実はこのことが、体罰の常習化と体罰の際限ない暴走の一番のポイントなのではないかと思います。
2013-01-30 21:05:23指導の初期段階で、止むを得ず体罰を使ったとする。 その段階では生徒の苦しみは普段より増える。しかし、その後「成果があがる」と体罰を受けた分、生徒が得られる快感は「増えてしまう」。 だから、成果を出した先生により感謝する。 そして、指導者も自分の行為を肯定的に捉えてしまう。
2013-01-30 21:24:08そして何より、体罰を乗り越えた生徒は、より大きな快感を得るために「自らすすんで『より苛烈な体罰』を望む」ようになるのではないか。
2013-01-30 21:25:56「苦しみを求めるようになるなんて信じられない」と思うかもしれない。しかし、苦しみを乗り越えた後に「必ず成果が待っている」なら、苦しい方を選択する人は結構いる。 身近な例で言えば「マラソン人気」だろう。 昨今のマラソン人気は、健康のためではなく「成果の実感」が欲しいのではないか。
2013-01-31 00:01:35体罰を含む「苦しさ」を乗り越えた後に感じる「快感(充足感/容認)」は、多くの人にとって抗いがたいものだと思う。そして「成功者」ほど「苦しい方を選べ」と口を揃えて言う理由もここにある。 同じ成功体験でも「苦しんでたどり着いた」方が「快感が大きい」からだ。
2013-01-31 09:58:35学校における部活動では定期的に「苦労が報われる」チャンス(試合での勝利など)が訪れる。そのチャンスは強豪校であればあるほど多くなる。 そして、その定期的に訪れる快感を大きくするために、部活動全体に「より大きな苦労」を無意識に容認する空気が出来上がる場合もあるかもしれない。
2013-01-31 10:02:02たぶん「苦しさの受容とそれが報われる快感が定期的に繰り返すサイクル」が一度完成してしまうと、そこには「結果」が目的ではなく「苦しみ(=体罰)」が目的化してしまうのではないだろうか。 「いつか報われる」からこそ「苦しみは多い方が好ましい」ということになってしまう。
2013-01-31 11:06:52苦しみが目的化してしまっているので、もはや体罰は評価の対象として認識されなくなる。 「体罰容認派」の人たちの思考回路はこのような経緯で正当化されているのかもしれない。 そして、繰り返すけれど「閉じた世界」では、これを「否定する」のは難しいと思います。
2013-01-31 11:11:34たぶん、体罰の是非をいくら論じても体罰はなくならないと思う。 大切なのは「体罰が意味を持つ閉じた世界」があるということを踏まえて、その閉じた世界を「いかに開くか」を考えないといけないんだと思います。
2013-01-31 11:13:54蛇足的な個人的見解。
僕はことあるごとに「手段の目的化」がいろんなところで起こっていることについて危機感を持っていると言っているんですが、今回の体罰事件の問題の一因もやはり「手段の目的化=本末転倒」にあると思います。
2013-01-31 11:27:58