【シューニャリアーナ序章曲】内的/外的な思考、科学(改稿Ver.)

今後のわたし(たち)のために
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内的な思考、哲学、科学(仏教絡みアレンジVer.)

『人間の内には、本人だけが自由な自意識と言葉という行為を以て解明することのできるなにものかが存在しており、それは人間の外面だけを見た本人不在の定義では決してとらえきれないものなのである。』

 ああ、今回のレポートもひときわ長ったらしいものとなりそうだ。なにせこの話題は仏教というタームをすでに大きく飛び越えてしまっているからだ。だから、敢えて最初に突然とこんな言葉を置いてみた。今まで合田先生の講義に関して様々なレポートを書いてきたけど、そのいろいろな思考が樹の幹の様にわいわいがやがやしながら結びついていって、だんだん自分の思考の方向性が見えていくとともに、それが今回の課題のテーマをことさらに複雑な物として私に呈示してくるのだ。だからどこから描けばいいかはもうはっきりしそうにないけれど、今年はレポートではなく卒論につなげて急ピッチに思考を仕上げていく時期だから、そのまとめ的なものも含めながら、今回の授業で得たものを、少々煩雑になることは覚悟の上だ、咀嚼・素描して行こうと思う。
 
 さて、そんなわけで、その思考の方向性を象徴する一つの言葉を最初に掲げてみた――――文学評論家のミハイル・バフチンが、彼が愛するドストエフスキー文学を批評する大著『ドストエフスキーの詩学』のなかで呟く一言である。人間の中には必ず、外的基準では決してとらえられず、自分の言葉、つまり<対話>という行為によってしか表現できず、理解させることもできない領域があるのだ、というこの一言は、ダライ・ラマ14世も『科学への旅』で追いかけている意識の哲学と重なって、非常に重大なテーマとして私の中に刻み込まれている。そしてそれは、これまでいくつも出してきた様々なレポートにある自分の思考と少なからず結びついているといえるし、そのつながり方が非常に多様であるために、今尚私の頭を混乱させている。奨励される思考、語りとはつねに内側であり、客観的なものが言及するものには限界があり、多大な疎外(※)を生む、というこの命題。これは科学とは力強い対立…というか拮抗を起こす考え方であり、それこそ心理学という「心、意識」領域への科学においては、これだけ研究の時期が長く続いていながらも尚も重大な問題として、心理学自身の自己問題として根底でくすぶっているものであると言える。

それもそのはず、普通日常的に「心」とか「意識」…果ては「精神」とまで呼ばれることもあるものは、基本的に個々の人間…その他の"生きて在るモノ"(下手したら生物、植物、微生物、無機物にまでも?)が持っている、所持している(と人間たちがよく考える)ものであるし、それがその一つの身体に所持している、ということは、個々のそれらがそれぞれ別々に所持しているもの――――つまり「内的」なもの(と考えられている物)だからである(まあ、ヘーゲルみたいに世界全体の精神を考える場合や、ユングのように奥底で一つに結びついている無意識という氷山の一角のように考える場合もあるにはあるが)…カッコが多くなってしまったが、まあ要するに「個々の一人一人、一つ一つが持ちうるものと考えられて」おり、それゆえに「それぞれ個々の内的な事情の差異が関わって」いるもの、という一般的な性質があるために、どうしても調べるとなったときに、内的な報告の個々の差異を統一的にしてしまいがちな「客観的」…つまり「科学的」な方法では、その差異を見落としてしまうという部分があるからである。そして、それはそれゆえに、その対象として調べた「個」への視座を見失い、またその「個」の事象へ迫ることをやめてしまうかわりに、その「個」を客観的な、データ化された、決まりつけられた「枠組み」のようなものにある種無理やりにくくりつけてしまい、「枠組み」づけられたものに分類、というか「決めつけ」をしてしまう危険性をつねに孕むのである。
 私が心理学、という言葉を聴いた時につねに警戒するものがまさにこの「外的」な客観視の方法論による心への接近のリスクであるわけだが、これはなにぶん心理学のみならず、というか心理学というよりもむしろ私が『評論』『批評』というものに触れていた時に力強く感じていたものであった。そして、数あるレポートを振り返っていくたびに、私の疑問とするところ、命題とするテーマも、この方向にあるのだとだんだん導かれていくようになっていったのだった。
 私が今までに書いてきたレポート…宗教学美学哲学を問わず、さまざまに出してきたレポートを振り返ってみれば、確かにそうだ。まず「初音ミクの執着!」などと脈打ったレポートでは、享受者と創作者、さらに提供者という「創作に関わる者の区分」を見出すきっかけとして、作品が単独であるわけではないことを中観派の「空」思想をなぞりながら考えていたが、それはそのままレポートとは関係ない、日常の傍らで読んでいる「サブカルチャー」批評の空間への強い違和感と結び付いて、「作品を語ることの倫理」「創作に言及すること、そのために受け取ること」への倫理と交わっていく。そこで私は、ツイッターなり日記なりの自分の呟きを通して、「実際に経験した者の語りに追いつくものはない」という考え方を強めるようになり、サブカル批評のパラダイムへの対抗の仕方、同時に、語ることへの倫理の思考、即ち創作やその創作に関わる言及の哲学としての思考を強めていくことになっていった。そして、それは確か高橋先生の「美学概論」に出したレポートでも似たようなテーマになっていたことを想起させる。当時の私いわく、創作者と提供者のための分析はあったが、享受者の享受の態度に関する美学は遅れているのではないか、とのことだったが、この言い方は、昨今の私は批判しているにせよ、一種の語りの方向の中心性を批判するもの、という意味では私のなかでいまだに息づいている。そうそう、ひとつ前のレポートは「東方Project」のキャラクター「藤原妹紅」を論じ、彼女が何故空海大師の格言を呟くのか、というレポートを書いていたが、これは先ほどの観点から見直せば、ある意味で「批評」の実践活動と捉えることができる。つまり、作品、『東方永夜抄』、およびその中のキャラクター。そのキャラクターという存在を、外側から消費論的に捉えるのではなく、作品の内部に潜り込み、そのキャラクターの息遣いをたどろうとする実験としてのそれであったと考えることができる。
と、今までの「自分概論」を見てみれば、今まで自分が考えてきた、または提出して来た各々のものが、この「内的」を求めるため道筋だったことが、とてもくっきりとした形で見えてきているように思う。それも一本の筋道というよりは、それこそドゥルーズの『リゾーム(地下茎)』のように、複雑怪奇に、関わる表層で多様に結びつきながら、私の奥底(潜在性)を照らすような、そういう結びつき方の形をとってやってきている感じに,だ(ある意味で非常に幸いなことだ、内的なものを言及する命題が、内的に呈示されて見えると言うこと)。

読んできた書籍もこれまた、そうした私の「内在」を照らし出してくるものばかりだった―――というか、「内的」のための書籍、ないしはそのように批判される本としてのものばかりだったような。『水と夢』『火の精神分析』などG.バシュラールの著作は、詩に現れる元素を描く詩人の内的なものの分析であると言えるし、内的なものを「伝える」からこそ、『我と汝』(M.ブーバー著)はその内的なものの交差、其の可能性としての「対話」の哲学書である。内的なものが内的であらんために外部化する、といえば「シュプレマンの論理」であるが、言葉の儚さが起こすそうした論理の代表者といえばJ.デリダ、私は彼の『火ここになき灰』を何度も読み返しているが、彼もまた、そのようなことをいいながら「内側に言葉をとりこむように」、と人に語る言葉の獲得のしかたをさりげなく勧めていたように思う…つまり、彼曰く「わたしの遺灰を君におくるように」(喪の作業)。『ゴロツキはいつも食卓を襲う』は、「食(フード)」の観点から映像表現に迫るモノで、関心領域は私の好むコンテンツではなかったものの、批評の実践としての文章を探す旅行という意味ではまったく私の関心領域であった。ツイッターでは岡田斗司夫がどうこうと呟く私は、『オタクはすでに死んでいる』を「御宅」という生き方を確かめるために、また批評における「内的」の死として『動物化するポストモダン』、や『ゴーストの条件~クラウドを巡礼する想像力』などと関連づけて読んだりもしていたし、今尚もしている。…ごらんのように(?)、今まで読んできた書籍そのほとんどが、私の中では、同じテーマのために呼応し、反響して、私の疑問形態のひとつをつくりあげているのである。どの本もまったくかかわりがない者同士なのに、不可思議なことである。

…さて、今回私がこのレポートに結びつけようとしている『ダライ・ラマ 科学への旅』―――その中の「意識」の話は、まさにそれが僕の外側、遠く外国の研究者同士の対話のなかで起きていることを示すそれであった。
『ダライ・ラマ 科学への旅』・・・この本は、現チベット法王ダライ・ラマ14世(以下法王と略記する)が、仏教の考えを科学の世界に通してその体系との対話、融合を試みようとする内容のものだ。その科学の種類は多岐にわたり、相対論や量子論、宇宙論や進化論から、それこそ心理学へも多大な関心を寄せている。そのアプローチとクリティサイズの方法と方向は、私と同じとまではいかないまでも、「研究対象の内/外」と言う点で、非常にシンパシーを感じさせる。この本での「心理学」へのアプローチは、意識を対象として、その研究方法の「内/外」を主題としているように見えるからである。

意識が起こす様々な経験は、色様々にある。「愛する人と会う喜び、親しい友をなくす悲しさ、鮮明な夢が呼び覚ます豊かな情緒、春の日に庭を散歩して味わう静謐、深い瞑想への完全な没入感」…いずれも意識の与えるたしかな「現実」であり、「独特な整合性」を持っている。それゆえに、第三者視座からの、外的、客観的な分析の成果は未だ充分であるとは言えない、と法王は言う(P.180)。そしてさまざまにこれまでに挙がってきた心理学の研究方法を紹介するが、その問題点を次のように述べる。

意識の経験は主観的で、言い表そうとすると複雑な問題が絡んできます。なぜなら、本質的には内的な経験を客観化し、経験する人の存在を排除してしまう恐れがあるからです。
前掲書P.184

なんらかの物質主義的な研究の仕方、という問題点から、意識・心を定義する用語の紹介を経て、次に現れたこの一言は私が非常に共感を得るものであった。なるほど確かに、心理学の手法、現代の西洋を基準とした客観的な手法によるものは、経験者、体験者当人を排除してしまう、というところまで同じだ。物質的な世界と異なり、意識の研究においては、個人的な報告がとても重要であり、『心理的な現象の現象学的な側面、つまり個人の主観的な経験という一面』(P.202)が必要である、と法王は述べるが、意識を介して行われている営みを知る、ということにおいては、心理学のみならず多くの学問、言論で同時に必要とされるべきことであるように思う。法王がここで主観的経験を「現象学」と言っているのはなるほどだと思う…つまり、あらゆる文脈づけられた基準、というものを一旦判断基準にするまえに「取り下ろす」というか、”はずす”…つまり現象学のE.フッサールがちょうどそう言うように「判断中止」(エポケー)し、個々の心的諸事象に迫って、その数々を照らし合わせることによって、ひとつの傾向性(志向性と言っていいと思う)を導き出す…つまり「還元」も行っているわけだから。

私もこの手の批判的な観点を、「批評」の文脈―――ことに、現代日本のサブカル批評空間に力強く感じている。つまり彼らの批評とは社会批評に結びつける形でのサブカル理論であるが、そこには彼ら自身の経験の記述がない。経験していない創作対象へ未体験のまま批評すること、それによってその創作の享受者(彼らが言うところの”消費者”)が定義されることにより、その本質が、果てはそれを享受する当人たちの本質が見失われるというものである。「ミク中論」にも挙げたけど、藝術集団が、その批評に定義づけられた私たちを描いたことで、その内的な決定的差異によりトラブルを引き起こしたことからも彼らの批評がいかに的外れだったのか、ということがアクチュアルに表立って出てきている今、この法王の主張は私の中で強い重要性を持っている。

 法王も紹介するように、仏教における心理…意識の研究は、そうした第三者的な方向からのものよりも、もっぱら内的な、個の諸倫理の分散をそのままとらえ、それを一致に近づけていく内的な努力のものが多い。『内観』と呼んで彼は紹介しているけれど、そのアプローチは西洋科学の客観性主軸の手法とは形相を大幅に異にしており、多分に「現象学的」である。またその「現象学」による正確な還元を行うための「厳しい訓練」もしっかり行う。

私は批評の在り方を疑問に問うているが、その際に提示する方法も、対象は享受する文化的作品として違いは持っているが、構造的には同じものであると言える。作品を見、その内側に入り込み、こんどは入り込んだ私を見る、複数の作品同士の比較もこれを経由して行う、という形の実践だが、ただたんに作品を見ていて思ったことを言うのとは違うことは身を以て実感している。繰り返しこうした活動を自己内部で続けていると、自然と者を見る目、と言えるものがついているなあ、と思える経験を何度もしているし、実際にその時得たもので対話をしてみると、物わかりがいい人と対話してみれば、この内的な観想による事柄の言及は、ともすれば理論よりずっと説得力を持つのだなあ、ということもしっかり経験している(それこそ私にしか言えない根拠無根の話だけど、内的に言って事実だからこう言わざるを得ない)。

もちろん、普通の意味での内省と仏教が内観による観想で目指すそれは距離があるが、「内的」という点、そしてその「内的」なものを見るための訓練をする、そのために内的に自分に問い続ける、自分自身と対話する(岡田斗司夫も言う『内話』)という点では強く共通した軸から出ていると言えると思う。

一方で、こうした内的な思考のやり方には問題点も勿論言われている―――実はこの先からが私自身で晦渋していて自分でもうまくまとめられていない―――が、その批判の仕方、というか議論の仕方については、以前からずっとあったとはいえ、法王と私、ともども非常に困惑しているのがうかがえる。彼は前掲書にてコリスンの「内的なものの思考の統制」というものに賛同したが、後述の文章を見るとこの「統制」の意味を受け取れているのかなあ、と思ったりもする・・・いや、私が批判するのも難というのもあるが、それよりも私はこの文脈での「統制」という語が非常に気になるのである。

法王は賛同すると言った上で斯く続ける:

仏教などの思想的な伝統で実践される瞑想などによる観想と、普通の意味での内省とは全く異なっています。仏教の場合は、例えば空想や妄想など、極端な主観性が持つ危険性に対して、慎重に注意を向けながら内観を行います。また、規律のある心の状態を洗練することが不可欠な準備となります。…観想的な内観を行うには、科学と同じように、一定の決まりごとや手順に従わなくてはなりません。(PP.205-206)

コリスンの「統制」にあたるものは、この文章上ではおそらく「注意を向ける」「規律」「洗練」という言葉が該当していると思われるが、どうも私のなかではこれがコリスンの言う「統制」と綺麗に対応する感じは見受けられないように感じる。というのも、コリスンの言う「統制」とは、『神経系の錯綜した働きや脳の生化学的な組成、あるいは特定の心理的な活動と脳との物理的な関連性』(P.205)などを、其の人の内観が明らかにできる可能性が根拠づけられていないから、それのカヴァーのために実験装置を用いるその用い方に内観を「統制」する、という意味にとることができるからである。すると、仏教における内観の限定が「内観のための内観」だったのに対して「外観のための内観」であるとして対立することになり、それこそ外的な客観化に内的な活動である内観が回収されてしまう、意図的な回収をされてしまうのではないかという危険性が孕まれて見えるからである。
仏教における内観の手法で除去するのは、あくまで内省の最中に起きる妄想などの雑念を取り払うという活動で、それこそフッサールの「判断中止」に近しい(おそらく全く同じとは言えないとは言え、元ネタであるピュロンがインドを経由しているという論文もあるくらいだから結びつきは強いと言えるが)。一方で、コリスンが統制しようとしているのは「科学の定めたルール」に内観の範囲を限定するという意味でのそれであり、その限定の内容によってはこの内観の方がくくりつけられてしまう可能性を秘めるということも暗に意味している。もしそうだとしたら、少しこの文脈の議論はかみあっていないことになるし、またもしその通りだったとあとあと明らかとなった時に、修正が非常に難しくなるのではないかという気持ちを私は導くだろう。いずれにせよ、法王における「洗練」とコリスンにおける科学のもつ「統制」の意図は同じであるとは思えない。

このことは前掲書のそのあとの文に登場する、ヒマラヤの隠者たちの感情にある心配とも結びつきがあるように思われる。法王はここの部分で、彼らのうち一部が実験に賛同し参加したと述べているが、その説得への賛同に関して、少々困惑していたことを明かしている――――『単にダライ・ラマ事務所の権威に屈したのではなく、私の意見に納得してくれたのだと思いたいものです』(P.215)。彼らは、実験への参加が「機会をかついだ見知らぬ男たちを満足させるだけだ」と思ったのだろう、と法王は発言しているが、私が思うに、それだけが要因ではないようにも思う―――それこそ、法王自身も言うがごとく非常に倫理的な、将来的な物に対する疑念なのでは、というものだ。

その疑念は、おそらくこのような思考実験により成り立つのではなかろうか―――その実験によりある種の成果が、科学的にこの瞑想への実験により成り立ち、体系化した場合。それ自体が今後良からぬことに利用されるのではないか。例えば、生物の行動から心や意思のようなもの―――いや、ここではまさに「意識」とよぶほうがふさわしいか―――があったと分かったとする…そして、満足するまでの仕組みが、科学的に明らかにされたとする…その場合、その同一の条件に結びつけるように生物がミサイルを発射する(ことを喜ぶ)ために使いこなせるようにする装置が作れたとしたら、それはどういうことだろう。これと同じように、瞑想によるあらゆる成果、それによる効果の利器が、例えば、戦争で傷ついた兵士の心をセラピーすることにより、その兵士を連続的に使えるようにする、という手段のために使われてしまうとしたら。そのための貢献をすることになるとすれば、瞑想を行うという行動、それが利他行であったとしても、倫理的とは言えないのではあるまいか。科学は仏教と違い、理念と理論は別々なのだから。

・・被害妄想だと私も思うが、将来性を考えるとここまで考える可能性があることは私は回避しえないと思う。というより、彼らが最も恐れていることがこういう地点への到達、あるいは回収、帰着であり、それゆえに参加を渋ったというのはあり得る話だと思う。

ところで、このように私が考えるのも、これまた自分の「内/外」への関心と確か、かかわっていたと思う。つまり、自らの活動が外化される、ということへの恐れとしてのそれだ。私が批評への関心と結びつけていうならば、御宅という活動、生活形態、およびそれを営む者が、作品の批評、という活動を渋る、ないしは批判する理由がこれによく似ている。それは内側に向けられるならまだしも、外側へと統制するルールであっては「客観性」の名のもとに、批評対象の「個」への迫り、そのポテンシャルを犠牲にしてしまう。また、そうしたポテンシャルが外化されたときに、その外化された作品および享受者の手法が一つの流行として消費されると、それ自体がはては自分たちのすべてであったかのように語られてしまう(セカイ系、日常系などという批評用語が起こしてきた罪はつねにこういうたぐいのものだ)。はては、それ自体が創作者にとっての題材となって、新たなジャンルを形成“してしまう”ことさえある(このような事態を商業における「手段化」と僕は時々言うことがある)。もっとひどく言えば、批評家は「創作や文化の流行を追いかけ、論じている」一方で、知らず知らずのうちに「創作や文化をリードし、意図的に導いている」場合さえあるのである。そのような当て嵌めは結局、社会論化されて社会分析として自分たちのことを決めつける根拠として働いてしまう。ならば、批評や語りなどしないほうがましだ、している奴は叩かなきゃいけない、という心理が自然と彼らのなかに起こるようになる。ヒマラヤの隠者たちはむやみに人を叩くことはしない(それこそ内観しつづける彼らはそうした執着は振り落しているだろうから)という点では違うけど、自分たちの行動を外側に出したがらない、出すことを一時的に警戒するという点では共通している。ここにも、内/外という重大な問題は力強く働いているように見える。

そうそう、「統制」といえば、最近心理学の学生に実験上では条件を二つ用意するのだ、ということを聞いたことがある。「統制条件」と「実験条件」という二つの概念がそれだ。簡単に言えば「統制条件」とは、その実験を統制する条件…つまり、同じタイプの実験を行う上での客観的な共通ルールとしての、まさに「統制」を行うほうの条件である。一方で「実験条件」とはその対になるもので、その「統制」された条件に対して、どのくらいの変数があるかというもの、つまり当実験を行うときの特別のルールとしての「付け加えた」当実験特有の条件である。「統制」するということにはこの二つに関与する難しさがかかわっており、またそれを設定するのはつねに人間、それこそ意思と意識を持つ者であるから、同じ人間の意識を相手とした実験というのに参加する場合は、この「統制」の仕方にまず疑問を投げかけるのはわからなくもない。仏教における「内観」の場合、個人の現象学的還元こそが意味を持つという伝統に沿ってきた。言ってしまえば実験条件しかない世界、乃至は「実験条件しかない」ということそのものが統制条件である世界だったとさえいえるのだから、そこに新たに外部からの統制条件がかかることは彼らにとって極めて新しい実験条件を提示されている状況にさえ見えるし、かえって危険だと思われるのはわからなくもない事である。むろん、私が見ている批評においてもこれがあったし、今なおその危険視感は増してきている。

外的視座と歩み寄ろうとする仏教と、外的視座を敵視してまで警戒する日本のコンテンツ享受者。両者はこうした意味では真向から対立していながら、課題としては共有しているものがあると思う。それは今こうして私が書いている(というより、論文上で「話している」)という行動それ自体にもかかわる哲学、倫理学と、強い関連性を持っているように思う。つまり「語り」(≒批評、評論)の方法の倫理、「受け取り」(≒享受、國分氏による「浪費」)をすることの倫理学。それはすなわち「内/外」という対立項の思考、ということと切り離すことのできないものであるし、またそれを切り離してきた、ということこそがその問題の出発点であったからだ。内外で「語り」といえば、デリダという哲学者はかなりこの問題につきあっていた。「内部の内部には外部が存在しており、その外部を内部からは追い出せない」(高橋哲哉)とするかの「シュプレマン(代補)の論理」にもあるように、内部化すること、には多分のリスクが伴うということ―――つまり、内部内部と内的な語りを続けていながらも、その内部的な語りが、語りとして表出している地点で、ある種外化される、外化する、ということのリスク。「コンスタティブとパフォーマティブ」の差異の問題も同一構造で提示される・・・パフォーマティブな語りは、コンスタティブに回収されうるということ…そう、先ほど私が法王のコリスンへの同意の仕方に疑問を持った、「内観の洗練/統制」の問題の起こり方と似た構造のそれである。またこの対立の仕方はもう一つ、別の疎外(※)の存在を私に呼び起こさせる…それは外化するという側の方、つまり語りや分析それ自体が多分の疎外を含む、いや生み出す、という事態そちらの方である。これに関しては法王の見解に対してというより、私が見る記述/発言のリスク全体にかかわるものに関してのそれである。たとえば内観して自己の現象学を記述するわけであるが、その際「統制」にせよ「洗練」にせよ、疎外を生んでいることは確かである。「洗練」のためには妄想や雑念を切り落とす。言い換えれば、そこに雑念があったこと、妄想があったことを切り落としている、それこそ「他在化」している…まさに「疎外」しているということができるし(そのためにヴィパッサナー瞑想という手法があるわけだが、これさえも疎外を生みうるリスクをゼロにはできない事…これは先にデリダの例で言った通りの事情から成り立つ)、疎外をしているということはその語り自身が語りの「内/外」をつくっている、ということですらある。妄想や雑念に関する方の実験はされないままになる、と極端な話行ってみてもいい。訓練された人による内観を奨励する法王であるが、言い換えれば訓練していない側の意識との比較はできないということにも読み取れるのだ。これまた私たちのいるコンテンツの文化空間で似たことが言えて、たとえ現在の提供者中心主義(私はProductionism(※)と呼んでいる)の批評を退けることができたとして、言い換えれば、それは提供者視座に開かれたパフォーマティビティを閉鎖、つまり「疎外」し、自分たち向けの語りにある種「逃げ込む」ことを、「内に内在」…内側に閉じこもってしまう可能性だって孕んでいる。いや、消費論とか提供中心とか以前の段階でも同じことが言える。ある視座からの語りはまたある視座からの語りを疎外しうる。疎外を避けて語ることはできないから、本来性なき疎外に従って、その「外部化」された方への開かれた語りもまた、許される場所を用意しなければ、その側の可能性の側も用意しなければ…(←ホントにいいのか?)という、多分に重なった問題を広げてそこにある。

はて、語るという態度とは、それ以前に、語るために「受け取る」とはどういうことだったのか?そも、何かそうやって「表出する」ことが「創作」というものに当てはまるなら―――その創作もまた、語るということ、そのための「受け取る」というものを多分に含んでおり、ここに受注と下請けの関係ができて「提供」もまたあるわけだが―――それらは、いかなる態度をもって、どのように「開かれ」てそこにあるべきか?そも、対象を以て”何かを”「享受」するものなのか?享受とは人間のみが行っているものか?(國分氏は「動物になること」と言っているが、動物もまた享受者なのか?)・・・こうして内/外という問いから出発して矢継ぎ早に出てくる疑問の数々は、いまこうして出してみても、法王が旅の中で戦っている「意識」の問題と等しく課題を共有しているのである。

走馬灯のような疑問の表出勝負であった。ちょっとやりすぎた、滅茶苦茶になりすぎたという感じもする。いや、読み手にとってもこのレポートは多分同じだろう―――そう、これは滅茶苦茶である。だが仕方がなかった。今私の脳内を素描するとなれば、整った形で描き出せるはずがない状況になっているのだ。ちょうどこの文章のような感じになっている。そこにダライ・ラマ法王がやってきて、さらにそれを深めてくれたわけだから、今その深みをじっくり味わうために書いた、というのが本当のところ…なのかもしれない。勿論、こうして自分という内のための書き方にあえてこだわったのも、それが外化されることを利用しててらったねらい、というよりそこへの祈りみたいなものがあるからだ。

今回の「仏教と心理学」に関する授業で私が受け取ったものは、必要以上に私の中で奇妙な結びつき方、接続の仕方をしていった。だから、これは年内にレポートにはできないだろうという目測がついていたのだが、なんとかこうして仕上げることができた。とはいえ、その内容は先ほども言ったように晦渋としており、私自身ですらよくわかってない…かもしれない。
どこにそれを開くのか?という問いは、科学と仏教の歴史のなかでの力強い哲学の疑問としての大きな物語であったとともに、私たちという文化に携わる者もまた共有する身近な大きな物語でさえあったということ。このことだけは、いくら言いすぎても言い過ぎないことはないのではなかろうか。とりあえずは、私はこのあたりで、以降の考察をエポケーさせて戴くとしよう、なぜなら、これ以上の思考はさすがにただの雑念連続としかならないという目測があるからである―――――!


「※」印の用語について:
「疎外」:簡単に言えば「見落とし」であり、これはマルクスやボードリヤール、そして文中にも出てくる國分氏がよく使う概念であり、内外の問題と分かちがたく結びついているものであることは言うを待たない――――なぜなら、疎外とはAlienationと書き、その原義に遡れば「他人のものにすること」、つまり他在化。他者化、自己からの外化であり、自己/他者の二項対立、それこそデリダで言えばDeconstruction(脱-構築)の持つ問題と、それこそ他者関係(笑)ではない。
「提供者中心主義」私は、語りや批評における視座は3種類に大別できる、と考えていうる。それは作り手である創作者(Creator,C)、受け手、鑑賞者である享受者(Enjoyer,E)、その仲介をなす提供者(Producer,P)で、批評はそれぞれへの偏りが時代ごとにあったと考えている。それぞれ創作者中心主義(Creationalism)、享受者中心主義((En-)Joycentlism)、提供者中心主義(Productionalism)で、ことに日本の文化批評、サブカル批評と呼ばれているものは社会学と結びつくことによって過剰なまでに消費者論になっており、それは提供者中心主義、であると考えている。

                          ~悉若無

参考文献やその他紹介した書籍群、Webページ群:
『ダライ・ラマ 科学への旅』(ダライ・ラマ14世、伊藤真訳、サンガ新書、2012)
(『ドストエフスキーの詩学』M.バフチン、望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995)
『火ここになき灰』(J,デリダ、梅木達郎訳、松籟社、2003)
『火の精神分析』『水と夢』(G.バシュラール、それぞれ1938,1942)
『我と汝』(M.ブーバー,植田重雄訳、岩波文庫、1979)
『ゴロツキはいつも食卓を襲う』(福田里香、太田出版、2012)
『オタクはすでに死んでいる』(岡田斗司夫、新潮社、2008)
『動物化するポストモダン』(東浩紀、講談社、2001)※この書については私は非常に強い感情をもっている、なにせこの文献注記の記述順を唯一書き間違えたくらいなのだから!
『ゴーストの条件~クラウドを巡礼する想像力』(村上裕一、講談社、2011)
『デリダ―現代思想の冒険者たち―』(高橋哲哉、講談社、2003)
『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎,朝日出版社、2011)
『テッペイの森-デリダを使った暴力に抗して』
http://www.teppeinomori.com/201011/2010111502.htm
その他、私の以前のレポート各種・私のつぶやき各種。http://togetter.com/id/L_O_Nihilum
とりわけ、今回は【シューニャリアーナ哲学】Creator,Producer,Enjoyer
http://togetter.com/li/445267、享受論的疎外について【シューニャリアーナ享受論EX】→http://togetter.com/li/409978

さらに、本まとめ用にリンク。⇒本まとめ最下段
【シューニャリアーナ】藤原妹紅と空海
幻想学~幻想解釈学 『初音ミクの執着!!~Highly Responsive to Musicians.』(リンク先は前編、前編内に後編リンクあり)

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ミハイル・バフチン,望月 哲男,鈴木 淳一,Mikhail Mikhailovich Bakhtin

火の精神分析

ガストン バシュラール

火ここになき灰

ジャック デリダ

リンク www.teppeinomori.com テッペイの森
まとめ 【シューニャリアーナ哲学】Creator,Producer,Enjoyer 創作倫理にかんする3概念とかほかにいろいろ 809 pv 3 1 user
まとめ 享受論的疎外について【シューニャリアーナ享受論EX】 享受論の体系化はまだ遠いと思う。 けれど、疎外が扱える、ってことは、差異を生み出せるってことだ。 つまり。 それは哲学たりえる、っていう暗示ですらあるのだ。 2969 pv 7
まとめ 【シューニャリアーナ】藤原妹紅と空海 三界の狂人は己の狂いに蓋をし、 四生の盲者は己の生と四苦を振り返ろうとしない。 振り返らなくてもよい世の中にては人は想像力を殺し、 死ぬことのできない人間はだれに祝われるまでもなく機械として動かされる。 そんな世界に彼女は言葉を投げつける。 遠く遠く、外世から。 それを、僕は読み取れるだろうか。 8300 pv 22
まとめ 幻想学~幻想解釈学 『初音ミクの執着!!~Highly Responsive to Musicians.』(前編) 仏教に絡めて初音ミクの消失!を解釈してみるトゥギャです。うん、できちゃいました。ひょんなとこで結びついちゃいました。 以前、僕は大学の課題レポートで、「消失」を「中論」で解釈する、っていう試みを行いました。その内容に興味を持たれた方がいらっしゃったので、レポの内容をトゥギャってみました。 これは前編です。CDの「分裂→破壊」まで考察します。 そしたら、リレーショナルアートとかも絡んでるんだね、と感心感心。私たちが投企している時代が、見えてきました。 こっちも、http://togetter.com/li/242279 の文脈を踏んでます。少しだけ(ていうかそっちにも自分のレポ引用あるしw)。 皆さんにとても重要な問題です。ミクの、歌声。 儚い歌声を、ぜひ聴きとってあげてください。 「中論」は仏教中観派.. 8906 pv 99 4 users