犬とオオカミの間～合鍵の話

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 実家に最後に帰ったのは、祖母が亡くなった時。遺産の相続放棄の手続きだけしてとっとと帰った。祖母が俺に渡したかった物は生前に全て密かに譲られていた。それも、全部大したものじゃない。祖父の大事にしていた懐中時計、ジッポ、煙草入れ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 俺に渡したかったからと言うより、金の亡者と化すであろう親戚連中に祖母はそれらを汚されたくなかったのだろう。懐中時計は修理に出してから立石の爺さんに譲った。ジッポと煙草入れも手入れをしてから後藤に譲った。俺の祖父は軍人だったそうだ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 戦中は軍神と崇められる名将、豊島照之。祖父に良く似てるという俺を祖母は誰よりも可愛がった。それが結果的に財閥の跡取り問題にまで発展してしまったわけだが。立石の爺さんと後藤と原野の女将は、祖父のかつての部下。もっとも俺が便利屋に拾われてから分かったことだったが。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 事務所に持って行き、椿に手入れや修理を頼むつもりだったそれらを見た時の後藤と爺さんの呆然とした顔は忘れられない。…どういうことだ？いつもの飄々とした口調すら忘れ呟く後藤と、ただただそれらを見つめる立石の爺さん。びっくりしたのはこっちだった。え、祖父さんの遺品。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 祖母ちゃんから預かってたんだけど、亡くなったから。今日葬式かなあ。えーと、ちょっと待ってくれるかな？君のお祖父さんて？いつもの口調を取り戻して語頭は俺に尋ねる。軍神豊島。…では亡くなったのは。立石の爺さんは顔を青くして尋ねる。豊島の祖母ちゃん。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 元軍人とは聞いていたから名前を聞いた事くらいはあるだろうと 思ってたら二人はバタバタと慌てだした。ああそうだった娘さんがいらしてたんだった。それにしたってあの馬鹿面とあの方の顔は似てるが全く別物じゃから！喪服どこだったかなあ、ねえコマちゃん！ちょっと！

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 貴女も準備なさいよ！階下に向かって後藤は叫ぶ。えーうるさいなあ何なん？ウチこれから夜の仕込みするんやけど。いいから喪服着なさい。喪服ぅ？後藤さんあんまり騒ぐとまた発作出るよ？何やの。…ワシも行かねばならんか？当たり前でしょう、軍神の右腕が何言ってるんです。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep あら珍しい所長が常識人みたいな行動されてる。鳥羽ちゃん、いいから香典袋作ってよ。はいはい。ねー誰が亡くならはったの？豊島の奥方。うそお？！元軍属三人は慌しく用意を済ませ、後を頼むと鳥羽に言い置き出て行った。職場に喪服置いてるのって凄いわよね。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 立石の爺さんの背広姿って初めて見たよ俺。長身で細身だから良くお似合いだったな。結果的に留守番になった俺達三人は呆然とその姿を見送った。お前は行かなくていいのか。俺と鳥羽の分のコーヒーを渡しながら椿は問う。俺が行くと面倒なことになるの。最期にちょっと話せたから。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 大学卒業したことも報告出来たし、就職したって言えたし。就職先のことは？話してない。俺の言葉に椿は苦笑する。まあ、説明は難しいな。でしょ？椿は小さな工具を広げ、懐中時計を分解しだした。ほんとに何でも出来るんだね。そうだな、主は細かいものをすぐに壊す方だったから。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 今日は他に仕事も入っていないから集中して出来るな。お前もゆっくりしてろ。別にお祖母ちゃんが亡くなったから落ち込んでるわけじゃないですよ、そこの馬鹿。書類仕事の手を休めず鳥羽が言う。恋人にフラれたんです。ほう。椿は顔を上げてこちらに楽しそうに笑う。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep それはそれは気の毒にな。やめて、結構落ち込んでるんだから。今回は長続きしてたのにねえ。しょーがないじゃん、留学期間終わって国に帰るって言われたら。ああ、あの子留学生？大学院に行くかもとか言ってたけど、結局一度帰るってさ。遠距離は？俺の性格上無理でしょ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep …駄目だ、ちょっと寝てくる。色々ありすぎて眠い。煙草と灰皿を供に蓮見が和室に向かってから、椿さんは肩を竦めた。てっきり俺は、あいつはお前と付き合ってるんだと思っていたんだが。違いますよ。でも仲は良かろう？高校の頃からの付き合いですけどね。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep そして、お互いの部屋の合鍵は持ってるんですけどね。これは口に出さない。恋人と別れたと言われても気の毒にとしか思わない。向こうも多分そうだろう。確かに恋人になろうと思えばなれる時期は幾度かあった。けれど互いにその気にならないのだから仕方ない。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep ただ、蓮見の今回の恋はかなり本気の様に見えた。あの執着心の薄い男が大学の4年間を全て一人に捧げたのだ。合鍵その子に渡してあげたら。私が何度かそう言ったがそれは駄目と寂しそうに首を横に振っていたのが、確かに不思議ではあった。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep しばらく優しくしてあげてくださいな。私の言葉に椿さんは苦笑する。まるで母親か姉みたいな言葉だな。そうですね、私にしたら猫をもう一匹飼ってる気分です。今頃どこかで誰かに食事を与えられている猫が聞いたらきっと怒るであろう言葉に椿さんは大笑いした。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 話がある。喪服姿のまま和室に入ってきた爺さんはそう言い置いて 俺の正面に座った。いつもなら煩いと逃げるところだが俺も正座して応じる。後ろには同じく喪服姿の後藤が腕を組んで壁にもたれていた。少し調べたら分かることだったのにね、僕らも油断してたよ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 別に隠してたわけじゃないですよ。そうだろうね。ただ、昔っから祖父に似てると言われ続けて気分が良くなかったんです。祖父は後妻の子で先妻の子達から疎まれて軍隊に入ったと聞きました。なのに軍で功績を挙げて、結果的に財閥は祖母の手に渡った。奥方はやり手だったね。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep ええ、とても。強い人だったから。で、君は何故遺産を放棄した？祖母からは色々もう貰ってます。金や財閥はいらない。懐中時計や煙草入れで満足だと？後藤は苦笑する。欲がないね。いいえ、愛情を。俺の言葉に二人は息を呑む。それから沢山の書物。俺には何よりの財産だ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 多分祖父の代わりだったんでしょうけど、それでも。…お祖父さんの最期のことは？何も。じゃあ、それを聞いてうちに残るかどうか決めなさい。･･･？何で？立石さん、後はお願いしますね。うちの貴重な若い働き手を逃さんで下さいよ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep …これが、今から２年前の話。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 俺の唯一の顧客であり、大学時代の恩師である松尾教授は日本古典文学の権威だ。髪を黒く染め、季節を問わず着物で、爪は長く伸ばされ調えられ赤いマニキュアがムラなく塗られた美しい老婦人。魔女と契約してるんだ、いやそもそも先生が魔女だと学生達は畏怖の眼差しで見る。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep いつも大学の研究室に呼ばれるのに、今日はカフェに呼び出された。そんなのうちの大学の近くにありましたっけ？最近出来たんだよ、貴方の助手も連れてきなさいね。楽しみにしてるわ。…助手ね。俺の万葉集で爪磨ぎをしようとし、見つかったので逃亡しかけた毛玉を捕まえる。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep お前も今日は出勤。怒られると思って首を竦める仔猫を懐に放り込む。そういやあの先生は無類の猫好きだった。先月書庫の整理をしてた時に話したことを覚えてたのだろう。事務所に電話をし、直接仕事に向かう旨を伝える。大学は俺の家を挟んで事務所と反対方向にあるからだ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 多分今日は一日付き合うと思うから。電話で鳥羽に伝えるとごゆっくりと返される。今日も事務所は平和らしい。結構なことだ。今月も薄給確実というのが辛いところだが。呼び出されたカフェは大学に行く途中の坂に出来た小さな店だった。Brian'sと書かれた看板を確認する。