快進撃のその裏に?

南北朝期の長距離遠征の裏付けとなったのは?というお話。 焦点を絞るため、前後のお話はばっさり削除しました。 並べ方も単純な時系列。暇があったら再編集します。
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司史生@減量中 @tsukasafumio

@Izumi_asato 観応の擾乱みたいなのが長く続くと、馬の損耗も激しいはずなので、次第に調達が厳しくなったのかなという気もします。

2013-02-05 23:43:00
司史生@減量中 @tsukasafumio

近代以前の軍事常識では異常な速度の足利尊氏や北畠顕家の東奔西走見てると、替えの馬の調達はどうしてたんだろなとは思う。実戦力としては互いにものすごい磨り減り方したんだろうなあ。

2013-02-05 23:45:42
和泉樹林 @IzumiKibayashi

材木座の発掘調査見ても、軍馬の損耗って凄まじかっただろうなぁ……。

2013-02-05 23:46:46
司史生@減量中 @tsukasafumio

戦場に耐える良馬は、現代ならテクニカルどころか装甲兵員輸送車を自弁する経済感覚でしょうから、中小の地頭や国人領主にはすさまじい負担だったのではないかと。 RT @Izumi_asato 材木座の発掘調査見ても、軍馬の損耗って凄まじかっただろうなぁ……。

2013-02-05 23:51:25
和泉樹林 @IzumiKibayashi

@tsukasafumio 装甲車自弁というのも恐ろしや。鎌倉時代の領主ならともかく、零細化した鎌倉末期の領主には厳しかったでしょうね。

2013-02-05 23:56:09
和泉樹林 @IzumiKibayashi

一つ昔から思ってるのが、良馬を手に入れるということは、良い種を持っているということで、このへんの種付けで中世、収入を得なかったのかなと疑問に思っているのですつ。

2013-02-05 23:56:24
司史生@減量中 @tsukasafumio

高幡不動胎内文書を見ても、中小規模の領主層は長期の軍事負担に悲鳴を上げてるわけですが。

2013-02-05 23:56:43
お菓子っ子 @sweets_street

兵站や軍制が確立していない時代に、どうやってあんな行軍したんでしょうね? RT @tsukasafumio 近代以前の軍事常識では異常な速度の足利尊氏や北畠顕家の東奔西走見てると、替えの馬の調達はどうしてたんだろなとは思う。実戦力としては互いにものすごい磨り減り方したんだろうなあ

2013-02-05 23:58:13
司史生@減量中 @tsukasafumio

しかも中世の街道って整備されてなくて獣道に毛の生えたようなものでしたし。 RT @sweets_street 兵站や軍制が確立していない時代に、どうやってあんな行軍したんでしょうね?

2013-02-06 00:01:20
銅大 @bakagane

@tsukasafumio 興味深いところでありますね。北畠顕家ですと、東北から京都へいったりきたりですし、東海道の住人とか、何度も徴発されたんだろうなぁ、と

2013-02-06 00:03:59
お菓子っ子 @sweets_street

統一された軍制のない雑多な軍勢が兵站組織を持たずにそんな道を通って日本を東西南北に大移動って、どういう行軍ノウハウ持ってたのか本当に不思議です RT @tsukasafumio しかも中世の街道って整備されてなくて獣道に毛の生えたようなものでしたし。

2013-02-06 00:04:53
和泉樹林 @IzumiKibayashi

今手元にないから確認でけへんけど、比叡山には確か3派閥くらいあって、皇家が何処かに肩入れしては話をややこしくするのが定番だったような。確か平家の政治的凋落における致命的な部分が、同盟者の後白河法皇の叡山介入による北陸経営の頓挫だったような。

2013-02-06 00:05:26
司史生@減量中 @tsukasafumio

当座は国府や守護所、宿駅や港津の備蓄を使い潰して進軍したのかと思います。逆に言えば大軍の常駐は難しいので、北畠顕家を鎌倉で迎撃した斯波家長があっという間にやられたように、ともすれば守備側は寡兵で、この時代はとにかく先手必勝の傾向が見られます。

2013-02-06 00:06:44
銅大 @bakagane

RT言及:おおなるほど。移動して攻撃(襲撃?)を仕掛ける側は、短期決戦なので攻め込んだ先の備蓄米を略奪して食いつぶして戦えるけど、守る側は、常駐しないといけないので、少数の兵しか置いておけない。(いざとなったら、周辺から集める)

2013-02-06 00:08:57
銅大 @bakagane

なんとも中世っぽい戦いであります!(中世です)

2013-02-06 00:09:39
和泉樹林 @IzumiKibayashi

軍制といえるかは知らんけど、足利氏の家政制度は割と巧妙で、家臣をグループ分けするにしても、地域ごとではなく、多少効率悪くても全国バラバラの家臣を1グループにしてたのが後に生きた。

2013-02-06 00:10:14
司史生@減量中 @tsukasafumio

@bakagane だから高師直が国人領主層から組織した畿内近国直轄軍の価値がよくわかります。畿内の物資と交通を利用し、京近辺でわりとすぐに召集できる準常備部隊だったのですから。

2013-02-06 00:13:09
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銅大 @bakagane

南北朝の「攻める側が略奪できるので軍は維持しやすい」的な戦い方は、上杉謙信なんかも得意としておりまして。三国峠の上から、「諸君、眼下に広がるイタリア・・・じゃなかった武蔵国には諸君が奪うに十分な富がある」とやったわけです。対して城塞ネットワークで米倉を守ったのが後北条。

2013-02-06 00:15:29
銅大 @bakagane

@tsukasafumio こういうのを組織化できるのは、やはり軍官僚としてそうとうに有能だったのでしょうね

2013-02-06 00:16:34
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司史生@減量中 @tsukasafumio

侍所といい軍忠状による恩賞申請システムといい、管理面では南北朝期の方が戦国時代初期より整備された部分があったようにも思われます。そういうシステムを最初から運営できる被官層を抱えていたのが足利氏の強み。

2013-02-06 00:17:53
司史生@減量中 @tsukasafumio

そりゃもう日本史上最強の執事ですから、高師直は。 RT @bakagane こういうのを組織化できるのは、やはり軍官僚としてそうとうに有能だったのでしょうね

2013-02-06 00:19:30
銅大 @bakagane

@tsukasafumio 足利氏は、日本のあちらこちらに利権やら荘園やらがあって、その管理のために、武装商社みたいなお仕事を鎌倉時代ずーっとやってた、となんかで読んだことがありますが、やはりそういうノウハウがいかされたのかしらと

2013-02-06 00:20:23
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