Ichy_Numaさんによる通約不可能性と文化相対主義について
通約不可能性について
通約不可能性(incommensurability)は、トマス・クーンの科学革命論で有名になったが、皆が皆この語をクーン流に使っているわけではない。たとえば、ルース・ベネディクトが異なる文化はincommensurableという時は、同じ尺度では測れないという意味しかない。(2)
2013-02-14 18:52:53もうひとつ、通約不可能とは数学では「同一数で割り切れる」という意味があるが、6と9は、3という同一数で割り切れるから、通約可能である。これを文化比較に当てはめるなら、同一要素が異なる二つの文化に認められれば、その要素について二つの文化は通約可能と言える。(3)
2013-02-14 18:58:02たとえば、もしも日本文化とアメリカ文化に、ともに恥と罪の概念があり、それらが両文化で同じ意味を持っているなら、日本とアメリカを恥と罪について通約可能=比較可能と見なせる。ベネディクトは、shame=恥、guilt=罪と「等値」に置き、『菊と刀』で日米比較をしている。(4)
2013-02-14 19:01:21とすると、ルース・ベネディクトは、異なる文化はincommensurableであると言いながら、『文化の型』でも『菊と刀』でも、commensurableな要素を見出していることになる。そして、commensurableな要素については、文化を通約=比較しているのである。(5)
2013-02-14 19:03:05ということは、ベネディクトが本当にincommensurableだと考えているのは、個々の文化要素ではなく、その価値づけの体系のほうである。たとえば、アメリカ人のintegrityという価値観で「測れば」、罪のほうが恥よりも重いが、その「測り」を日本には当てはめられない。(6)
2013-02-14 19:06:14「日本的」な価値体系と、「アメリカ的」な価値体系は、incommensurableなのであるが、問題は、アメリカ人=ルース・ベネディクトが、「日本的」な価値体系をそもそも英語で記述できるか、ということだ。これは、通約可能性の問題ではなく、翻訳可能性の問題となる。(7)
2013-02-14 19:08:20『文化の型』では、ベネディクトは、英語と欧米人文社会科学は、未開文化の翻訳記述に十分な語彙を持つと考えていた節がある。十分使える辞書が手元にあるというわけだ。しかし、『菊と刀』では、自分の辞書は不十分だと気づき、日本語のネイティブ・タームから新しい語彙を作ろうとした。(8)
2013-02-14 19:11:33辞書作りから始めるとなると、翻訳の複数性と不確定性の問題が生じてくる。ベネディクトの新語を組み込んだベネディクトの辞書が唯一の辞書ではないからだ。この問題は、クリフォード・ギアツの解釈人類学でも常に指摘されるものだ。彼の記述は素晴らしいが、それが唯一かい?と。(9)
2013-02-14 19:14:12ベネディクトは注意深いので、たとえば「孝」という言葉が中国でも日本でも使われていても、決して「同一数」とは扱わなかった。『菊と刀』では、その意味の違いを丹念に検討している。そこは、『文化の型』からの大きな「進歩」だと私は思う。(10)
2013-02-14 19:17:03『文化の型』では、翻訳記述の困難は問題にされていない。たとえincommensurableであれ、それぞれの未開文化(の価値体系)を英語に翻訳記述することは可能だと思っていたようだ。たとえば「アポロ型」や「ディオニソス型」は「同一数」であった。(11)
2013-02-14 19:20:39『菊と刀』では、ベネディクトは使える「同一数」を見つけられずに苦慮したのである。そこで、対比と類似、意味の拡張、違和感の意図的利用といった工夫で、なんとか「約せない」日本文化を翻訳記述しようとした。たとえば、義理は「借金のようなもの」というように。(12)
2013-02-14 19:23:27数学用語を使うなら、『菊と刀』でベネディクトは「構造同値」の描写をしようとしたのである。日本の義理関係とアメリカの貸借関係は「構造同値」だと。そして「構造同値」が発見できないときには、日本語のタームから新しい用語を作り出すしかなかった。(13)
2013-02-14 19:26:34要するに、通約不可能性という言葉の使い方も様々なら、それと翻訳可能性とは、また異なる問題だということだ。通約不可能性は、決して翻訳不可能性ではなく、翻訳可能性が(無数に)あることが通約可能だということでもない。(14)
2013-02-14 19:29:17通約できなくても翻訳できるかもしれず、いや翻訳できなければ人類学は成り立たない。通約不可能な価値観を、なんとか翻訳しようとするのが、人類学なのだから。そして人類学は、無限の翻訳可能性に畏怖の念をいだき、自分たちの記述は「ひとつの翻訳でしかい」ことを謙虚に認める。(15)
2013-02-14 19:32:28文化相対主義について
暴力も体罰も排外主義も「国際的に恥をかくだけだから止めろ」といったほうが、通じるんじゃないか? 明治の政治家は、国際的に恥をかかないために、懸命に当時のグローバルスタンダードに合わせようとしたんだから。
2013-02-10 02:08:42相対主義と対立するのは、普遍主義ではなくて、絶対主義。普遍主義と対立するのは、相対主義ではなくて、個別(特殊)主義。個別主義的絶対主義には、相対主義も普遍主義も手を焼く。困りものの個別主義的絶対主義の代表が、ナショナリズム。
2013-02-10 20:53:11近代的な内政不干渉原則は、少しも相対主義的ではなく、個別主義的絶対主義の間の「手打ち」に過ぎない。それを個別の内から揺さぶるのが相対主義であり、個別の外から揺さぶるのが普遍主義である。
2013-02-10 20:58:08個別主義的絶対主義の間の政治的な「手打ち」が内政不干渉原則なら、その文化版が「誤って」文化相対主義と呼ばれる傾向にある。人類学者として看過できない大問題。
2013-02-10 21:03:24ナショナリズムの間の文化不干渉原則は、個別主義的絶対主義の間の文化的な「手打ち」であって、人類学的な文化相対主義とは根本的に異なる。人類学的な文化相対主義は、自己の文化を相対化し、反省的に、自己の文化の変革を目指す思想。「伝統の足枷」を脱ぎ捨てるための文化相対主義なのだ。
2013-02-10 21:07:03