-
L_O_Nihilum
- 1310
- 0
- 0
- 0
![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
①②「言論界/オタク」という二項対立 これがかなり出てますね。あと言論への批判、で『旧来の「言論界」は「オタクの価値」を理解できなかった。しかし、「批評家・東浩紀」は、それを理解できる、とされる』に該当する部分もあるね。
2013-02-24 23:12:24![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ていうか「80~90年代はそれが出来なかった」「ネット時代の文化論のお蔭で成功したんだ」っていう言い方が、すでにそうだよね。
2013-02-24 23:12:54![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
http://t.co/DUJk7Jgipz 『「区別なしに自由に」という東の「手の差し伸べ」こそが、かえって上下の区別を再生産し強調しているのである。いささか不適切な例を使わせてもらえば、これは、「黒人」に「名誉白人にしてあげよう」と「手を差し伸べる」類の行為だ。』
2013-02-24 23:17:13![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
病人が、病人のたまり場である病棟から退院した後、後遺症療養施設の状況をなんとかしようとしてそのシステムの解体を試みる(宇野らはこちら)。一方、むしろこの後遺症施設で出来る事をしよう、として病人が病人として出来る事をしましょう、と考えるのが東チーム。
2013-02-24 23:39:40![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
一方で、そうは言いながら院内感染してるよ、って言いつつある(もしくはもうちょっとそれを言い換えて理論化しよう)とする…事を考えてたのが私で
2013-02-24 23:40:23![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
また、その私には「病院ごとひとくくりにしつつある」という(御宅批評側と)同じ行動をしつつあるという点があり
2013-02-24 23:40:57![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
そこでまた東の言葉が利いてくる:『その語りが売れなければ意味ないじゃん』…で、ワタシのカウンター『そういう「売り」そのものを立場にしてるんだな?』
2013-02-24 23:41:49![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ラカン『二人であることの病い』は、三つの症例報告と二つの論考から成っている。有名なのは、「症例エメ」と「パラノイア性犯罪の動機 ――パパン姉妹の犯罪」だろうか。ここで言われているのは、ラカンがのちに「鏡像段階論」としてまとめるところの、他者と自己の奇妙な関係についてだ。
2013-02-24 23:45:15![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@L_O_Nihilum 医原病者の病歴自慢を、さも高尚に飾られても困りますよね。市場原理で粉飾し、論破したつもりでしょうが、つまるところ「売れてる俺格好いい、売れてないお前らは劣っている」という自己賞賛でしかありません、と感じます。
2013-02-24 23:45:27![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「症例エメ」は、次のような内容だ。ある女性(=エメ)が女優のZ夫人を襲撃し、逮捕された。分析の結果、彼女は母へ、同僚へ、姉へ、そして当のZ夫人へと次々に「理想の自己像」を投影していたことが分かる。つまり襲撃事件は、彼女にとって理想像と刺し違えることに他ならなかったのだ。
2013-02-24 23:58:41![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@Kirimisakana スピヴァクの「サバルタンは語ることが出来るか」を思い出します。ドゥルーズらへのスピヴァクの批判は日本に於いてはドゥルーズらのその思想を以て私たちをかこいづける彼らの態度に似たものを見出せる。
2013-02-24 23:59:17![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
さらに厄介なのはこの自己賞賛(と私たちが思うモノ)に関して彼らが無自覚かつ無意識である事。つまりそれが悪いと思ってないどころか悪気も無いし、ていうか彼ら自身は善意でやっておりその理論は事実世の中で評価が高いので事実「悪くない」。無自覚な確信犯と僕は形容している。
2013-02-25 00:08:23![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ひとは他者に投影した「理想の自己」という幻想によって、自らの人生を構成するものだ。鏡に移る自分を見て、初めて自分が確認できるように。しかし彼女の場合、「理想の自己像」への同一化に初めから挫折していた。よって「理想の自己像」である他者に嫉妬を、憎しみを抱いてしまったのだ。
2013-02-25 00:22:53![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
エメは、どうすればよいのか。それは「鏡と私」の関係に対して第三者を導入すること、すなわち「社会から裁かれること」だったとラカンは言う。彼女の病である「自罰パラノイア」とは、むしろ罰せられるためにこそ悪いこと(ここでは襲撃)をしなければならない、という強迫的な状態を指す。
2013-02-25 00:28:27![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
タイトルの『二人であることの病い』は、こうした洞察から来ている。ひとは絶えず「他人という鏡」との関係によって生きるのであり、だからこそ「病む」のだ。正確に言えば、「鏡」との関係から抜け出すために(エメの場合は罰を受けるために)ひとは「病」を生み出さざるを得ないのである。
2013-02-25 00:34:34![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
なにそれ僕じゃん。>RT 東浩紀という反面教師(とそれに連なって自分に見える反面教師群)を殺そうとして咎められようとする。
2013-02-25 01:04:58![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
僕のうっすらとした実感ではあるが、多分批評家がこぞってオタク論を論じ始めた頃(=ゼロ年代)は、創作のヒントとして彼らを読んでた(つまり彼らの批評を”創作者に向けられた”理論だと思っている)人が多かったんだろうなあ。>RT
2013-02-25 01:06:41![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
これは、考えてみればすごく分かる話。00,01年、つまりゼロ年代「突入したばかり」の頃ってことは、ネットみたいなクラウディング技術がまだ今ほど発達してなかった時代。まだYTもニコも無かった時代だよね。
2013-02-25 01:07:44![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
更にこれを言い換えるとテレビ、ラジオなど提供者絡みのメディアがまだ創作とその権利を掌握してた時代。そのころの享受者の創作をしようとする際の志向は(当人が図っておらずとも)「提供される作品のような創作であること」に重なるから。
2013-02-25 01:08:43![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
宇野や東がゼロ年代以前の理論が今通じないと言ってる最大の理由もこの境界線から説明できる。だって当時は創作者(プロ創作)→享受者っていうメディア構図が確立してた時代だもの。その時代の批評は当然ながらゼロ年代には通じない。
2013-02-25 01:10:03