一ノ谷へ行ってきた【830年ぶり2度目】
- Shigetada_bot
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ただいま、生田の森。一ノ谷の合戦では、源範頼様を総大将にした大手軍の中に私の名が見える。「酉の刻、源氏の両将摂津の国に到る。七日卯の時を以て箭合わせの期に定む。 大手の大将軍は蒲の冠者範頼なり。相従うの輩…」(吾妻鏡)。大手軍は「浜地より」攻めたとあるがこれは平家物語にある生田口と同じである(当時は海岸線がもっと深く、また森は広かった)。
入り口には巨木と源平の看板が。
さすがに旧い森となり、規模こそ小さくなれど大きな樹が多い事が歴史を語っている。
http://twitpic.com/c7uz0w
箙の梅の史蹟前にて、今が盛りと香る梅花。梶原源太景季の箙に差した梅の枝、二度取るまいぞとの歌があったが神域と言う事と、戦のなき世の願いかと。生田の森は新田と足利の戦場にもなっているしな。 http://t.co/FqoxxzkkGs
2013-02-23 10:24:39@Shigetada_bot あれだけ町中にあると歴史の舞台には到底思えぬよな。今では紀香・陣内の挙式をした曰く付きの社ということで有名w
2013-02-23 11:43:08http://twitpic.com/c7v0bt
立派な境内は、あちこちに紅白の梅が咲き誇り香りのよい、今は静かで美し気な場所である。しかし周囲はかなり都会化しているよな。
生田森では梶原親子の話が目立つ、特に「梶原が一の谷二度のかけ」で景季を討たすなと敵陣に戻り戦う景時、また「箙の梅」として「梶原は心の剛も人に勝れ、数寄たる道も優也けり。咲乱たる梅が枝を、蚕簿に副てぞ指たりける。蒐れば花は散けれども、匂は袖にぞ残りける(源平盛衰記)」と残る。ちなみに『平家物語』では長門本に「やさしき事は、片岡なる梅のまだ盛なるを、一枝折て箙にさしぐして、敵の中へかけ入て、戦時もひく時も、梅は風にふかれてさとちりければ、敵も味方も是を見て感じける」とある。
後の世に、再び戦の場となったことは『太平記』の「新田殿湊河合戦事」に新田と足利による湊川の戦いの段に見える。
平野の祇園神社より、福原京趾を一望す。有馬街道に沿う天王川の先一帯が平家の地であった。……義仲殿が焼き払ったんでしたかね? 胡瓜のお守りお受けした。 http://t.co/UVVBrzC3jY
2013-02-23 12:59:29生田の森から福原京を見渡す、湊山の祇園神社へ。平野展望公園というのが近くにあってそこを目指したが、こちらからの眺めで十分だった。
この神社は清盛公が病の平癒を祈願したとのことで胡瓜のお守りがある。清盛公の伝承で言えば、神社を下ってすぐの川沿いにある湊山温泉に行きたかったが、今回は断念。
http://twitpic.com/c7v0lv
祇園神社の本殿はけっこう立派である。
本日は平野の祇園神社から福原京趾の宝地院(平頼盛邸=安徳天皇仮御所)など立ち寄り。住職の話すには、神戸の空襲で街が焼けた時、寺からは海が見事に見渡せたそうだ。また、宴の御器なども出て、高貴な方の邸宅趾である事は確信したと。 http://t.co/CKK7H6ArUd
2013-02-24 01:32:27祇園神社から川沿いに雪ノ下御所址を抜け、荒田八幡へ。来てみたは良いが誰もおらず、さっき生田の森で作った御朱印帳を持ってうろうろ。そういえば荒田八幡は神仏分離でここへ移動したのだった。と、元々の場所である徒歩3分の宝地院へ。
保育園と併設の小さな寺院であるが臆せず門から入れば、住職殿が丁寧にもてなしをくださる。荒田八幡の神主様は、普段は和田岬の和田宮(神社)にいらっしゃるとの事。
ココは完全に住宅地の中にあるのだが、大河清盛の間は観光バスが乗り付け、お堂にも入れずに庭で立って話をするなど大変だったとか。
福原京に関する話のあと、逆に武士の間に於ける八幡信仰などについて質問されしばし問答で語り合うなど。坂東武家での信仰はまた西国から見て興味深いらしい。
そしてそのころ、遠く金ヶ崎で何か起きていた。 ↓
鵯越に! ……きて見た。そして初めて来たと言う安達盛長殿と合流したw http://t.co/y2JRWo9deL
2013-02-23 14:40:24鵯越…義経殿率いる搦手軍はこちらへ来た。そして『源平盛衰記』また『平家物語』の延慶本では私はいつの間にか大手軍を離れてこちらに来ている。いわゆる「鵯越の逆落とし」の段である。んですがな……さておき、当時は鎌倉で殿の近くにて働いていた藤九郎こと安達盛長殿が、現世になってやってくる事にw なり合流した。
鵯越だ! さあ、三日月背負って逆落と……おかしい。何故か見覚えがないような。生田の森の見覚えの方が、ある。(←自分で自分のアイコン否定) http://t.co/qmtVzl0PDZ
2013-02-23 15:43:28雪の中を盛長殿と帰る我らの鵯越の下りの坂…雪が降ってきたので須磨へ向かう。 http://t.co/wkMZDiGiLv
2013-02-23 15:48:16鵯越にて並びに寺が見えたので、話を聞けるかと訪れてみた。安達殿と「とりあえず江戸時代開基とかだと残念だな」と話しつつ、こんにちは。
「うちは80年ほど前の…」惜しい、0がひとつ足りぬ! 雪も降ってきたし駅までの帰り、安達殿が見つけたタイムトンネル的な道で駅へと向かった。
http://twitpic.com/c7v4mb
いま、貴方のウーシーローにーRT @tokuro_bot: 坂道も噂以上に細かった…。妖怪馬担ぎは本当にいたのですか? RT @重忠: 鵯越だ! さあ、三日月背負って逆落と……おかしい。何故か見覚えがないような。生田の森の見覚えの方が、ある。
2013-02-23 15:54:05とりあえず、坂を下り神戸電鉄有馬線の鵯越駅へ。
http://twitpic.com/c7v19c
鵯越関係史跡は墓地の中に、徒歩50分コースで高尾山がありそこに「義経駒繋ぎの松(の跡)」とか、軍勢を分けた場所とされる「蛙岩」などがありますな。園内を回るバスも一時間に一本くらい出ているそうですが雪に負けて退散。
↓ ここで、見事に空気を読んだ定期ツイが自動投下w
重忠と言えばの鵯越の逆落しにて馬担ぎだが、愛馬・三日月を損じぬように担ぎ上げて生えてた椎の木をねじ切り杖にして谷を降りたんだそうだ……馬に乗って降りる方がまだ人馬ともに安全だと誰もが思うよな…杖ついたところでどうなのか、私も覚えておらぬ。
2013-02-23 16:14:39最近定期ツイが気を回すんですよ、進化した? RT @tokuro_bot: 定期ツイが空気を読んだw RT @重忠: 重忠と言えばの鵯越の逆落しにて馬担ぎだが、愛馬・三日月を損じぬように担ぎ上げて生えてた椎の木をねじ切り杖にして谷を降りたんだそうだ……馬に乗って降りる方がまだ
2013-02-23 16:34:19