3月3日細田守×東浩紀おおかみこども対談の実況をしたktgwtkyへ届いた沢山のリプライへのktgwtkyの回答まとめ

2013年3月3日に行われた細田守×東浩紀対談「おおかみこどもから子育てへ」の実況ツイートをしたktgwtkyさんに、対談の内容への反応と思われる沢山のリプライが届いた為、リプライの代わりに連続ツイートをしていたのでまとめました。
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Kitagawa Takuya @ktgwtky

ところで昨日の対談の実況をしたところ、予想されたとおり少なくない数のネガティブな反応があり、そのほぼ全てが女性の権利擁護に関するものだった。 実況者がそうした言説に応答を強いられるのも大変意味不明だが、暇なので(渋谷で機種変の順番待ってるw)ここで自分の立場を明らかにしておこう。

2013-03-04 20:00:07
Kitagawa Takuya @ktgwtky

まず、生物学的な性と社会的な性に関わらず、個人の職業選択の自由と自己実現の追求は開かれているべきであり、多少の失敗や社会への不適合があって撤退を強いられた個人を包摂するシステムが社会に実装されているべきだ。私は性に関わらず好きな仕事につき、頑張れない人は共同体が支える社会を望む。

2013-03-04 20:09:32
Kitagawa Takuya @ktgwtky

だが、個人の持つ属性による抑圧が存在せず、さらに失敗に寛容な社会というものは、近代主義が追求する理想ではあっても現実はそれほど人工的ではなく、フラットではない。 残念ながら前近代から引き継いだ理不尽な抑圧は社会の各所に存在し、その抑圧を正義と信じる共同体の成員は極めて多い。

2013-03-04 20:14:33
Kitagawa Takuya @ktgwtky

そうした抑圧は自明性の支配と呼ばれる。男性のヘテロセクシャル優位の共同体においては、法、慣習、道徳の各段階の行為規範において、この自明性の支配が存在する。 例えば、一見平等に見える選択的夫婦同性制度においても、改姓を強いられるのは女性だ。同性のカップルは法的な保護すら受けない。

2013-03-04 20:19:26
Kitagawa Takuya @ktgwtky

労働市場においても同じだ。上の世代の女性たちの努力や男女雇用機会均等法の施行によって、女性が男性と同様に職業につけるようになったとはいえ、就職や昇進や昇給においての不利益は現存する。 さらに旧来の女性に求められた役割への期待も残存している。男性の育休取得割合は未だ低いままだ。

2013-03-04 20:26:28
Kitagawa Takuya @ktgwtky

そうした現状を変えたいという問題意識を、私は共有する。 では、どのような手法があるか。 一つは近代のフラット性をどこまでも貫徹することによって、多様な価値観の並存を目指す手法。 もう一つは抑圧された者に武器を与え、現存する抑圧を修正するアファーマティブ・アクション的な手法がある。

2013-03-04 20:31:15
Kitagawa Takuya @ktgwtky

私は、前者に立つ。 理由の1つは、抑圧されたある特定の集団に特別な権利を付加することは、対等な個人を前提に設計された社会に歪みを導入してしまうからだ。どの集団にその力を与えるのかという恣意性、他の価値を侵害しないのか、に関する懸念が払拭できない。 例えばポルノ規制などがそうだ。

2013-03-04 20:36:57
Kitagawa Takuya @ktgwtky

ポルノが女性性を消費することを自明性の支配として扱い、自由な性的表現を排除しうる権利を認めるべき、という議論はマッキノンやドゥオーキンなどラディカル・フェミニズムの立場から主張される。 これは疑問だ。多数者の専制による抑圧を救済するための憲法上の権利、という枠組を逸脱するからだ。

2013-03-04 21:22:14
Kitagawa Takuya @ktgwtky

他者の権利を排除する拒否権は、個人の対称性を侵すその暴力性ゆえに、裁判所による認定は慎重に行われてきた。 不快(原理的には支配構造に基づく人格的価値の侵害)を理由に安易に他者の自由を、特に根幹的な精神的自由権を排除することは慎重でなければ、共同体の寛容さや自由は担保されない。

2013-03-04 21:27:34
Kitagawa Takuya @ktgwtky

砕けていえば、誰かが傷ついた事を理由に他者の自由を束縛できる社会とは何も言えぬディストピアをもたらす、ということだ。 誰かを傷つけたとしても、具体的な法益の侵害と侵害程度の深刻さが存在しない限り、表現の自由が担保される社会の方が、価値観の多様さは保証されるのではないか。

2013-03-04 21:32:19
Kitagawa Takuya @ktgwtky

あ、機種変してもすぐTwitterのクライアントDLしたら使えたw なので電車の中で書くかなあ。 つーかiPhone5、画面広くて入力しやすいんだけど、軽過ぎて落ち着かないw 落としそうw そして片手で打ってると上のボタンが押しにくい。

2013-03-04 21:50:32
Kitagawa Takuya @ktgwtky

では、以上のような立場を昨日のおおかみこどもに関する対談内容と、その批判に対して当てはめてみよう。 大まかに言って昨日の対談内容は、おおかみこどもは子供を育てるということの孤独を意識的に物語の構造と画面の設計において描いた作品、という事が評価の軸にあったと言える。

2013-03-04 21:58:01
Kitagawa Takuya @ktgwtky

その孤独とは、実存的には理解し得ない他者と対峙すること、社会的には語り得ぬ秘密を抱え込むことや社会的な弱者となる(弱者が否応無く関わってくる)契機を得ることとして語られた。 そうした孤独を描くことで、人が他者に寛容であるとは何か、全体から隔絶した個の可能性とは何かが意識されると。

2013-03-04 22:02:57
Kitagawa Takuya @ktgwtky

そうした作品理解に対し、2つのフェイズでの批判があり得るだろう。 (1)映画の内容や構造、作家が持つ抑圧性に対する批判。 (2)映画を評価する論者の主張に潜む抑圧性に対する批判。 まずは(1)の内容から検証していこう。 第一に、映画の表現に政治的正しさを求めるのは誤りだ。

2013-03-04 22:07:38
Kitagawa Takuya @ktgwtky

もちろん映画の表現が気に入らないのは自由だし、不快の表明も自由だ。 だがそうした批判を糾合し、同調圧力をもって気に入らない作品制作を困難たらしめようという試みは、価値観の多様性を抑圧するだけで拡げはしない。 露悪的に描かれた前近代性が問題を顕在化することもある以上、害悪しかない。

2013-03-04 22:13:35
Kitagawa Takuya @ktgwtky

そして傷や怒りの表明は自意識に一時の癒しを与えるとしても、価値観の異なる他者の共感を得ることはない。 傷ついた事を近しい誰かに話すのは良いだろう。だが、遠い他者へは到達しない。 以上より、戦略上も戦術上も、表現の抑圧性への怒りで赤の他人を非難する事は非合理的な言説といえよう。

2013-03-04 22:19:46
Kitagawa Takuya @ktgwtky

私はパフォーマティブな側面から映画の内容批判の無意味さを指摘したが、対応してコンスタティブな批判を行う気はない。なるほど、解釈によってはかの映画は抑圧性に満ちているかもしれない。 だが、映画とは画面の平面性がモノとして観客の視線を受け入れ、反射し、多様な解釈を許容するものだろう。

2013-03-04 22:28:07
Kitagawa Takuya @ktgwtky

そもそもそうした性質を持つ映画の解釈とは、求めてやまない欲望の目的物の射影になってしまいがちだ。優れた映画ほど、主体の欠落を投影されてしまう。私は、おおかみこどもへの批判はそうした仮想敵への攻撃、つまり理想化した自我への運動に見えてしまうのである。それでは他者に届くはずがない。

2013-03-04 22:32:41
Kitagawa Takuya @ktgwtky

というわけで、おおかみこどもの内容が云々は近しい人に言って下さいw 近しい人となら話す意味があると思う。だって、その人の傷は自分の痛みとなってこの身を苛むのだから。 そういう物理的、身体的な応答の限界性を根拠に、無限の応答責任から切断された自由や個人の可能性あると思うしね。

2013-03-04 22:37:14
Kitagawa Takuya @ktgwtky

あと、おおかみこどもの解釈は東さんのが昨日の対談でわかるし(そして素晴らしい切れ味だし)、てらまっとさんのおおかみおとこの存在と画面の平面性(絵画性)に関する優れた論考もあるので、私が付け足すことは何も無いと思うのです。 では、(2)の批判へと移りましょう(家に帰ってきたー)。

2013-03-04 22:47:19
Kitagawa Takuya @ktgwtky

さて、昨日の対談で、男親の疎外が器質的な相違から不可避なのだ、という主張が見られた事についての反発は極めて大きそうだった。 器質的な差異を無視し、抽象的な男女の等価性のファンタジーを前提として女性の権利保護の歴史は駆動されてきたのだから、その反発は当然のことだと思う。

2013-03-04 22:52:08
Kitagawa Takuya @ktgwtky

だが、そうした近代のファンタジーを貫徹することで、今後の権利保護の歴史が進展していくかどうか、考えてみて欲しいと思うのだ。 精神の自由に資源の配分原理がふみこまないという立憲主義的価値観は、西欧の権利保護の歴史を移入した日本では全く内在化されず、西洋的な個人を確立できていない。

2013-03-04 22:58:35
Kitagawa Takuya @ktgwtky

近代の貫徹と超克という対立は戦前のから続く議論だ。現代では抑圧的な社会に抗する近代的個人を頑張って構築するのか、そこから逃避し乖離的に生成する秩序や原理によって上書きするのか、それともその両方を戦術的に使うのか、という流れとして回収されている。 いや、実際頑張れるんですかね我々?

2013-03-04 23:12:18
Kitagawa Takuya @ktgwtky

ぶっちゃけていうと近代に向けて頑張るべきだけど、ちょっと失敗した奴や頑張れないやつも包摂する社会システムを作ろうぜ、ってのが西洋の権利保護の系譜なわけで。(疲れて口調がw) 近代的な人工性は求めてくべきだけど、近代がない日本で実現するためには別のとっかかりが必要なんじゃないかと。

2013-03-04 23:15:44
Kitagawa Takuya @ktgwtky

輸入品である西洋的な近代の貫徹は無理でも、動物的な共感の回路を作ったり、日本に内在する原理で突破しようぜ!って方がリアリティあると思うのよ。それで近代のファンタジーが持っていた機能が補完できるならね。 そん時に「補完できるわけねーだろボケがぁ!」って潰すのどうなの?って思うの。

2013-03-04 23:23:52