足立智美・岡﨑乾二郎チャット対談「音楽の条件」
- art_studium
- 5265
- 0
- 12
- 1
岡﨑:そういえば、足立さんは音楽に特別な技術は必要ないと書かれていますね。今度の講座の案内で。http://ow.ly/2wIdK (21/65)
2010-09-01 12:51:24岡﨑:統合にたいする不快感といえば、キニャールという人の『音楽への憎しみ』 という本がありましたが、むしろ音楽に必要なのは、差異の認識。隔たりの自覚でこそあって、それを消し去り忘却させる技術ではないと、そう足立さんは考えておられますか?(22/65)
2010-09-01 12:54:26岡﨑:でもたいがいの技術は、その差異、隔たりを忘れ、消去することこそを旨としている。快楽を与える?不快の技術。というのもこうした技術によって、すべての差異は消去すべき、不快の対象に変わってしまうのだから。(23/65)
2010-09-01 12:57:36岡﨑:キニャールの本は、アウシュビッツにあった音楽隊のことを書いています。ユダヤ人の囚人たちが音楽を演奏させられる。あんな極限的な悲惨な状況内で、演奏される音楽。囚人たちは、にもかかわらず、音楽に没入してしまう。(24/65)
2010-09-01 13:00:43足立:それと同じかは分かりませんがマルクス主義のブルジョワ芸術への批判もいぜん意味があるのかもしれない。でもとりあえず身に付いたことを引き離してみたり、別のものをしつこく繰り返して幸福から醒めてみることは大事でしょう。(25/65)
2010-09-01 13:03:56岡﨑:芸術的想像力(あるいは それにもとづく芸術的経験)というものは、しばしば、差異の解消、あるいは矛盾の止揚に向かう。けれど、この解決(カタルシス?)は芸術の効果であって目的ではない、(27/65)
2010-09-01 13:07:00岡﨑:少なくとも動機であってはならない。むしろ重要なのは、距離の把握、差異の発見、いいかえればそれこそが音の発見なのでは?(28/65)
2010-09-01 13:09:04岡﨑:楽音は音ではない、音楽という暴力の結果である。技術というものは常に力ですね。対象を変形し、物質を形式に合わせ矯正する。(34/65)
2010-09-01 13:18:20岡﨑:いわば音以前の、音というのは、差異でしょう?聴覚に位置づけられるまえの(むしろ蛇が捉えるような、動物たちが捉えるような音)、ときにそれは色として把握されるかもしれない。ざらざらした、すべすべした触感として把握されるかもしれない。(36/65)
2010-09-01 13:24:28岡﨑:技術ではなく、とりあえずは態度といっておきましょう(しかしその態度に至るまでの技術はありえるでしょう)あるいは態度ではなく、思想?思想というと誤解を招くならば、一種の構造。(39/65)
2010-09-01 13:30:35岡﨑:できると思います。知識ではないけれど。たとえば我慢するということ、忍耐するということ。あるいは寛容さ、差異をつかまえる容器ですね。差異とは時間であり空間であるから。(41/65)
2010-09-01 13:36:42地上のすべての(武器のように)楽器 !!を捨てる聖チチェリアhttp://twitpic.com/2k5454 聖チチェリアは音楽の守護聖人(だから。彼女は音楽から遠ざける楽器こそをまず捨て去る。なぜなら楽器とは、音 を手なづけ矯正するために人間が作った武器であるのだから)
2010-09-01 13:38:27岡﨑:まさにケージ的ですね(笑い)。理性からいえば、その隔たりは無駄。排除すべき余剰の障碍物でしかない。一方、感覚はこの無駄を許容することからしかはじまらないのだけど、(43/65)
2010-09-01 13:42:54(楽器という)武装放棄。放棄された楽器たち。素手で音楽に向かう→http://twitpic.com/2k55fr ( ラファエロによる)
2010-09-01 13:40:51