会津藩の成立 (歴史の基本)

大石学(東京芸術大学教授)を迎えて セミナー<「謎解き八重の桜」なぜいま八重なのか>の中から、 会津藩の歴史を学びながら、福島の歴史的背景を観たいと思いました。 (セミナーの内容から、かな~り抜粋いてます。) 続きを読む
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会津藩の成立
天正17年(1589)伊達政宗領

天正18年(1590)蒲生氏郷領九一万石

慶長3年(1598)上杉景勝領一二〇万石

慶長5年(1600)蒲生秀行領六〇万石

寛永4年(1627)加藤嘉明領四〇万石

寛永20年(1643)保科正之領二三万石

※二代将軍秀忠の子、三代将軍家光の異母弟、高遠藩主保科正光の養子になり、のち山形、会津藩主に。
慶安四年(1651)家光の遺言により四代将軍を補佐し幕政をみる、御三家につぐ立場に/城代家老らが会津藩政を担当。
―2正経―3正容―4容貞―5容頒―6容住―7容衆―8容敬-9容保

にゃん @LavinyaRose

(3)会津藩の教育『会津藩御法度書解説書』秋月一江編 ・家訓15か条/寛文八年(1668)4月11日 保科正之制定 (大君の儀一進大切に忠勤すべく存すべく、列国の例をもって自ら処すべからず、若し二心を懐かば、則我が子孫にあらず、面々決して従うべからず)→幕府への忠誠が第一

2013-03-08 01:59:52
にゃん @LavinyaRose

(3)元禄9年(1696)松平姓お葵の紋を与えられる。 天明7年(1787)寛政の藩政改革 寛政11年(1799)藩校日新館命名 文化5年(1808)蝦夷地守備  相模湾警備 寛永5 年(1852)美濃高須家三万石から容保が養子に

2013-03-08 01:58:11
にゃん @LavinyaRose

(4)・お話の什 6歳より9歳までの子供たちが「おはなしをいたします」と言って心得七か条を誓い合った /什は幾つかに地域割してつくった組のこと/「一.年長者の言うことに背いてはなりませぬ」 「弱い者をいじめてはなりませぬ」「ならぬものはなりませぬ」

2013-03-08 02:00:26
にゃん @LavinyaRose

(5)座長(参会者のうちの最年長者)ひとつひとつ読み上げると、座員はその都度「はい」「はい」と頭を下げて拝聴する。/違反者への制裁→「無念」「竹うち」「絶交」「手炙り」「雪埋め」の五段階

2013-03-08 02:00:57
にゃん @LavinyaRose

(6)東京学芸大学教授 大石学先生は、 「賛否両論あるが、 子供は善悪なしに、こういうのをしつけと言わねばならない。 そういう『教育法』 また一方では、『思考停止』につながる。 人に言われたからそのまま、従うタイプに。」

2013-03-08 02:02:29
にゃん @LavinyaRose

(7)「今の教育は「なぜそういうことになったか」納得させるやりかた。 」 会津もこのやりかたを目指していたらしい

2013-03-08 02:03:28
にゃん @LavinyaRose

(8)藩校日新館 ① 『福島県史・第2巻・通史編2・近世1』P690(山口孝平執筆) 学制は、素読所と、講釈所の2段階 「会津藩士の子弟は、すべて入学が義務付けられていた。10歳になるとまず素読所にはいった」(P692)

2013-03-08 02:03:58
にゃん @LavinyaRose

(9)「講釈所在学の年齢は長男は31歳まで、次男以下は21歳までと定まっていたが、ふ 通24~25歳まで勉学している。中等に進んだもので有能な人物は、選抜されて江戸昌平へ、藩費留学の特典が与えられていた。期間は3年間であるが延期も許されていた。」(P639)

2013-03-08 02:04:22
にゃん @LavinyaRose

(10) ②藩校「日新館」(笠井助治筆)大石編「近世藩制・藩校大辞典」

2013-03-08 02:06:22
にゃん @LavinyaRose

(11)③「寛文4年(1664)藩主保科正之が稽古堂を設立、元禄2年(1689)稽古堂を廃止し町講所を設立し士庶共学に、天明8年(1788)大規模な学問所を設立。

2013-03-08 02:08:13
にゃん @LavinyaRose

(12)寛政11年(1799)「日新館」と命名、7000坪、文武教場を整備、中央に南面して聖堂、文道は、漢字を中心に和学、新道、算法、習字、習礼、天文、医学、洋学。 「藩士子弟は必ず日新館に入って所定の課業を修め、その在学生の数は常に千人を下らなかった。

2013-03-08 02:09:38
にゃん @LavinyaRose

(13)所定の年歳を過ぎても素読を修了していない者には補習授業も行われていた。」 「医学の発足」享和元年(1801)は他藩より比較的早い。 八代容敬の時の弘化年間(1844~47)には藩費による蘭方医学修業の遊学が行われている。 (ただし蘭学導入は遅い)

2013-03-08 02:09:52
にゃん @LavinyaRose

(14)安政六年(1859)、日新館の医学寮に蘭学科と舎蜜科とが加設された。 日新館の経費は藩主よりの寄付米年5000石で運営された。(P248)

2013-03-08 02:10:21