陸奥会津藩初代藩主・保科正之公の生涯をまとめてみた

江戸幕府3代将軍・徳川家光公の異母弟で、初代将軍・徳川家康の孫でもある、陸奥会津藩初代藩主・保科正之公の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1673年2月4日(寛文12年12月18日)会津松平家初代・陸奥会津藩初代藩主の保科正之が亡くなりました。享年63歳。 初代将軍・徳川家康の孫にあたり、3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を補佐し、幕閣に重きをなした人物でもあります。 #保科正之 #会津松平家 pic.twitter.com/Zp7vtaGZe6

2018-02-04 18:33:30
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1611年6月17日(慶長16年5月7日)保科正之は2代将軍・徳川秀忠の四男(庶子)として、秀忠の乳母・大姥局の侍女 静(志津とも)との間に誕生しました。 正之は3代将軍・徳川家光の実弟でしたが、当時は大奥の秩序を守る為、正室側室以外を生みの母に持つ子供を養子に出すのが通例でした。 pic.twitter.com/i1QrNVCoWl

2018-03-16 00:36:00
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また秀忠の正室は織田信長公の姪・お江の方。 お江の方は気性も激しく、生まれた子の存在がお江の方の知るところとなればどうなるか解らないと秀忠は武田信玄の次女・見性院にその子を預け、幸松と名付けて養育を依頼します。 pic.twitter.com/rU0X8V1o9c

2018-03-16 00:36:02
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正之の出生は秀忠側近の老中・土井利勝や井上正就など、数名しか知らなかったそうです。 1617年(元和3年)正之は見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主・保科正光に預けられ、正光の子として養育されます。 pic.twitter.com/smhXBCq58Y

2018-03-16 00:36:02
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正光は自らの後継者として正之を指名し、自らの存命中に秀忠と正之を父子対面を約した遺言を遺しています。 1631年(寛永8年)正之は亡くなった正光の跡を継いで高遠藩3万石の藩主となります。 兄である家光が弟・正之の存在を知ったのは、成就院というお寺に寄った時の事でした。

2018-03-16 00:36:04
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その時、家光は身分を隠し休憩の為に寺院に寄ったのですが、そこの僧侶に 「肥後守(=正之の事)は、将軍家の弟君だというのになぜ不遇されているのか」 と聞き、初めて正之の存在を知ります。 pic.twitter.com/nj6vkuAvRk

2018-05-09 23:19:05
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また次兄・徳川忠長とも対面しており、忠長からは大変気に入られ祖父・徳川家康の遺品を与えられたそうです。 その後、正之と対面した家光は謹直で有能な才を持つ異母弟を可愛がり、重用します。正之は1636年(寛永13年)には出羽山形藩20万石を与えられ pic.twitter.com/P6iJaIkwOR

2018-05-09 23:19:06
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1643年(寛永20年)には陸奥会津藩(現:福島県西部と新潟県・栃木県の一部を治めた藩)23万石と大身の大名に引き立てられます。 以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めました。 1651年(慶安4年)家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残します。 pic.twitter.com/RX5H90jyln

2018-05-09 23:19:07
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これに感銘した正之は1668年(寛文8年)に『会津家訓十五箇条』を定めました。第一条には 「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、 以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守り伝えていきます。

2018-05-09 23:19:09
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幕末の9代藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦い抜きました。 1669年(寛文9年)嫡男の正経に家督を譲り、隠居。正之はその手腕で文治政治を推し進め「殉死の禁止」「末期養子の禁の緩和」「玉川上水の開拓」など、様々な改革を打ち出します。 pic.twitter.com/xtFuCRYDBI

2018-05-09 23:19:09
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その政治的手腕は会津にも発揮され、産業の発展にも力を注ぎました。 1657年(明暦3年)の明暦の大火で江戸城の天守が焼失した際には、天守の再建よりも民衆の生活の安定に努め、以来江戸城の天守が再建されませんでした。 pic.twitter.com/480gKnaT8y

2018-05-09 23:19:10
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正之は熱烈な朱子学の徒でそれに基づく政治を行っています。身分制度の固定化を確立し、家光亡き後の幕藩体制の維持強化に努めたのです。 会津では朱子学を藩学として奨励し、好学尚武の藩風を作り上げました。 pic.twitter.com/NakBibAnxQ

2018-05-09 23:19:11
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また90歳以上の老人には身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給し日本の年金制度の始まりとされる制度も確立しています。 正之は水戸藩主・徳川光圀や岡山藩主・池田光政と共に、江戸初期の三名君と呼ばれ、会津藩の藩祖として会津に多大な功績を残しました。 pic.twitter.com/wHDNsWaI9H

2018-05-09 23:19:13
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1672年2月4日(寛文12年12月18日)保科正之は江戸三田の藩邸で亡くなります。享年63歳(満61歳没) 生前、正之は幕府より松平姓を名乗るよう勧められますが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯を保科姓で通しました。

2018-05-09 23:19:14
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3代藩主・正容の治世に松平姓と葵の紋が使用され、親藩に列します。正之の墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山に在ります。 以後、2代・正経を除き会津藩主は会津若松市の会津松平家墓所に神式で祀られています。1675年(延宝3年)墓所に隣接して土津神社が建立され、正之は祭神として祀られました。 pic.twitter.com/inNe8mlRJD

2018-05-09 23:19:14
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鶴ヶ城から北に10kmほど上に在る会津藩校・日新館。1664年(寛文4年)初代藩主・保科正之公が藩内には稽古堂を設けたのが始まりとされています。 敷地には大きく「什の掟」が掲げられている場所が在ります。会津藩士の子供たちは地区ごとに「什(じゅう)」というグループが定められており、 pic.twitter.com/0gh8AuvgTj

2018-05-10 01:06:43
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6歳から9歳まではこの「什」に属していました。基本的に遊びも勉強も、この「什」のグループで一緒に行っていたのです。 「什の掟」とは什の中のルールで毎日最年長の什長がこれを唱和し、メンバーがきちんと守れているかどうか確認していたのです。 pic.twitter.com/nQeE31ebSQ

2018-05-10 01:06:45
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什の掟は、7つあります。 一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ 二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ 三、虚言をいふ事はなりませぬ 四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ 五、弱い者をいぢめてはなりませぬ 六、戸外で物を食べてはなりませぬ 七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ pic.twitter.com/YKEOcxH3wR

2018-05-10 01:06:46
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これに「ならぬことはならぬものです」を付け加えたものが「什の掟」です。子供たちの間の事とはいえ、ルールはルールなので破れば当然、罰がありました。 一番軽い罰は、皆の前で「無念でありました」とお詫びをする事で、最も重い罰が「絶交」でした。 pic.twitter.com/luTMZhLLBZ

2018-05-10 01:06:48
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「絶交」は言葉通り什のメンバーから絶交されてしまい、こうなると親と一緒に什のメンバー各人の家に謝りに行かないと許してもらえませんでした。 会津藩士の子供たちはこうして「什」の中で会津藩士としてふさわしい人間になる為、研鑽を積んでいったのです。 pic.twitter.com/6G8Dk9uXIg

2018-05-10 01:06:50
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戊辰戦争後、会津藩士たちが敗軍でありながらも名を残す事が出来たのは、この様な徹底した教育の賜物だったのかも知れません。 現在でもこの什の掟を基にした「あいづっこ宣言」というものがあり、会津若松市内の子供たちは皆、すらすらと暗唱出来るそうです。 pic.twitter.com/OUIanqiMBn

2018-05-10 01:06:51
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1664年(寛文4年)の稽古堂創設から354年余り、今年は明治維新から150年。日本史上屈指の名君との呼び声も高い保科正之公が描いた理想は数百年の時を超え、現在もそしてこれからも、会津の子供たちに受け継がれていくことでしょう。 pic.twitter.com/k4OSoeCohL

2018-05-10 01:06:53
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